人間文化研究機構

人間文化研究機構
理事
長野 泰彦

 人間文化研究機構を形成する5機関の教員にとって、フィールドワークは必須の仕事だ。国立民族学博物館や総合地球環境学研究所などでは当然だし、歴史や文学の分野でも、文献ばかり扱っているわけではない。現場を観察することは歴史や文学を適切に理解するために大切なのである。私の専門はチベット・ビルマ諸語の歴史研究で、そのための記述には現地へ赴くのが一番である。人々の生活という脈絡の中で、言語を理解する必要があるからだ。

ここ20年ほどはギャロン語という少数民族言語を研究している。中国四川省西北部に分布しており、15万くらいの話し手がいる。毎年夏にギャロンの中心地である馬尓康(バルカム)で調査しているが、帰途ギャロンの南端のある寺に行ってみた。ポン教(チベットに仏教以前からある宗教)の寺と聞いていたが、ポン教の寺なのか道教の寺なのかは分からなかった。この地域は臥龍(ウーロン)と呼ばれているが、寺には巨大な龍がクネクネと這っていて、地名の由来となった場所らしい。この辺はギャロンと羌族の混住地域で、本来の地名があったはずだが、今は不明である。その隣が、この頃日本のTVでもよく紹介されるパンダ飼育センターである。正式には「中国保護大熊猫研究中心」と言い、保護・繁殖・野生化の活動をしている。運動場兼見学コースに行くと、パンダがごく間近に見られる。子供のしぐさは特にかわいい。

チベット語を話すギャロン人の協力者とあるパンダを見ていたら、それまで機嫌よく笹を食べていたのに、サッと木陰に隠れてしまった。中国人の団体がドヤドヤと入ってきたせいらしい。パンダは木陰からじっと様子を伺っている。団体がいなくなるとまた出てきて笹を食べ始める。その協力者によれば、パンダは中国語とギャロン語を聞き分けられるんだ、と言う。科学的根拠はともかく、面白い解釈である。我が家の柴犬は、自分の名前と「散歩」という言葉だけはよく分かる。ある種のプロソディーやトーンに動物が的確に反応するのは事実だ。

ギャロンを少数民族と言ったが、中国が認めている少数民族ではない。民族識別が行われた時代に、ギャロンの人々は自分たちの文化的アイデンティティーの観点から、「藏(チベット)族」を選択したからである。しかし、その言語は、チベット語からの文化語彙の借用が多いものの、チベット語とは本質的に異なる。チベット・ビルマ諸語の祖先の言語が持っていたであろう形態論的な特徴を持ち、ビルマのカチン語(中国ではチンポー語)に近い。その意味で大事な言葉なのだが、複雑な文法と、少数民族でないことから学校教育でギャロン語が使われないことのために、中国語しか話せないギャロンの若者が増えてきた。また、方言差が大きいのだが、これも段々に消えつつある。この言語(とその方言)が失われないうちに、詳細な記述資料を残しておかないと、歴史研究にも深刻な打撃となる。ボケる前に少しでも研究を積み重ねておきたい。

(平成18年11月21日掲載)

※著者の肩書きは掲載時のもの