人間文化研究機構設立記念 シンポジウム 今なぜ、人間文化か(2/3)

 
 
パネリスト
脇田晴子*/古橋信孝*/松井孝典*/永山國昭*
司 会
長野泰彦*
 
地球の特殊性と普遍性―比較惑星学
  • 長野
  •  続きまして松井孝典先生、お願いいたします。松井先生は惑星物理学、宇宙物理学がご専門ですが、人間の文化や歴史といったところまで視野を広げておられます。かなり前のご著書ですが、『宇宙人としての生き方』では文化と歴史の問題を正面から扱っていらっしゃいます。
  • 松井
  •  今までご発言の皆さんは文科系の方でしたが、私から後は自然科学系が発言いたします。では、自分の専門分野に関して、私がどのようなことをしているか、そして、それが今日のシンポジウムの主題にどのように関わるのかということを簡単にお話したいと思います。

     私は基本的には、宇宙というスケールで地球という惑星の普遍性を探る、あるいは生命というものの普遍性を探るという研究をやっております。具体的にどういうことかと言いますと、「比較」をしています。たとえば太陽系という惑星系のなかで地球といろいろな星々を比べて、地球の何が特殊で、何が普遍かということを調べる。これを「比較惑星学」といいます。1969年にNASAがアポロ計画で人類を月に送って以降、このようなことが可能になりました。そのとき誕生した新しい学問です。

    このシンポジウムでも、「比較」というものが何を意味するかがテーマの一つになっておりますが、比較というのは非常に重要でありまして、とくにわれわれの分野では普遍性という問題に関わるのです。比較することによって、何が普遍で、何が特殊化を見定めていくわけです。

     私が言うこの「普遍性」とは、先にご発表された方々とは多分少し違うと思います。人の意識としての共通性みたいなものを普遍性というのではなく、私はやはりバックグラウンドが物理ですから、物理学的な意味での普遍性です。時間や空間を拡張していったときにも、そのような時空でも成立するような共通の現象、あるいはそれを貫く原理原則、そういったものをわれわれは普遍性と呼んでいます。ですから、地球から宇宙へ出ることは、必然的に普遍性を追求する作業にほかならないわけです。たとえば地球であれば、まず太陽系の中で比較します。次に、最近は惑星系がたくさん見つかっていますから、銀河系というスケールで地球の普遍性を追及します。

     もともと物理学や化学は地球の上でわれわれが考え出したものですが、二十世紀に宇宙の果て、というか宇宙の誕生の瞬間まで見ることができるようになって、そのスケールでも、物理学と化学は、少なくとも今言ったような意味での普遍性を持ちます。要するに地球の上だけで成立するのではなくて、太陽系でも成立するし、銀河系でも成立するし、その外側のもっと大きな銀河を含むような時空間でも成立します。私の言っている普遍性とは、そのような意味です。

     先ほど日高先生は生物の話をされました。生物学というのは物理学や化学と並んで、生物学と呼ばれているのですが、今のような立場からすると、まだなんの普遍性も持ちえていません。地球上でしか成立していません。しかし、物理学と化学は、この宇宙で成立することが確かめられました。ただ、この宇宙がユニバースなのか、マルチバースなのかでまた違ってくるので、物理学と化学の普遍性にも限界があり、少なくともこの宇宙でしか通用しない。マルチバースという意味で通用するわけではありません。このように考えていくときりがないのですが、ここでは少なくともこの宇宙で成立したら普遍性を持つということにしておきます。

     地球の特殊性の最たるものは、生命を育む惑星だということです。ですから、地球の普遍性を探るときにやはりどうしても生物というものが関わってきます。そして、今のところは生物というのは地球にしかいません。ですから、その意味では生物学は「地球生物学」なのです。生物学というのは地球でしか成立しない学問なのです。ゆえに、私の考えではまだ普遍性はなんら持ちえていません。

    恐らく二十一世紀は、地球生物学が生物学なのかどうかを探求することが、自然科学にとって最大の課題だろうと思います。生命という現象、あるいは生命の営みを貫くなにか普遍的な原理原則があるのか、定義がありうるのか。要するに、地球上でわれわれが知っているような生物ではなくて、この宇宙全体でもそういうものがあるのかどうかを探る、それが最大の目標になるのではないかと思います。それもまた、比較によるわけです。

     実際にそうした作業を進めていくためには、まず地球以外の星に生命がいるかどうかを知る必要があります。たとえば火星には生命がいるのかいないのか。2005年1月には、土製の衛星のタイタンに探査機を降ろして調べます。タイタンは地球とある意味できわめてよく似た星で、大気を持っています。ちなみに、大気を持つ天体は宇宙にはたくさんあるので、大気を持っているという特徴は普遍性を持ちます。そのなかでの地球の特殊性としては窒素が大気の主成分ということですが、タイタンも主成分が窒素です。この衛星の上空にはもやが漂っており、それは有機物がたくさんあるわけですから、あるいは生命がいるかもしれません。なお、タイタンには氷の大陸があり、エタンの海が地表に広がっていると考えられていますが、それを実際に確認しようというわけです。

     銀河系のなかでは惑星系がたくさん見つかっています。しかし、地球のような惑星はまだ見つかっていないので、そうした惑星を探す試みが次に行なわれるでしょう。そこで生命が見つかれば、今度は「銀河系生物学」という分野が生まれてきます。そのくらいの段階までいって初めて、われわれは生命というものについてより普遍的な議論ができるようになるでしょう。そうなれば、生命の起源や進化もある程度は解き明かせるでしょう。現在はそのような状況です。ですから、比較というのはきわめて本質的なことです。それは時空を拡張することであり、普遍性を追及していく作業にほかなりません。

     では「歴史」はどうでしょうか。歴史のとらえ方に関しても、われわれは非常にはっきりしています。というのは、この宇宙には「ビックバン」という事件があって、そのときがT=0に近い瞬間で、今に至るまで宇宙は膨張を続けているという事実が知られているからです。

     われわれ自然科学者は自然とは何ぞやということを研究しているわけですが、この宇宙に関して言えば、自然とは少なくともビックバンで誕生して以降の宇宙の歴史のなかで作られてきたものです。その宇宙開闢以来の歴史を書いた古文書がすなわち自然です。従って、自然を知ることは、古文書を読み解く作業にほかならないわけです。われわれのやっていることは、じつは宇宙の歴史を読み解いている作業なのです。

     この「歴史」という言葉の意味も、文科系の方々が言われる「歴史」とは多分違っていると思います。皆さんが言われているのは、いわゆる文明というものができて以降の歴史だと思います。われわれにとってはそれをもっと拡張したものですが、歴史はまさに本質でありまして、自然科学とはまさにビックバン以来の歴史を解読する作業そのものなのです。

    では、そのなかで「文化」とは何なのかということになるのですが、さすがに宇宙から文化というものを論じるのは難しい。通常、文化というのは人間圏のなかだけで論じられる、いわゆる文科系の学問だと思います。先ほど日高先生は生物圏と人間圏を比較して、より普遍的に文化というものを論じられました。

     そういう意味でいきますと、私の立場としは地球や太陽系ぐらいのスケールで比較をしなければいけないのですが、さすがにそこまで比較を拡張しても違いは何も見えてきません。少なくとも生きものというか、生物としての共通性を持つのは生物圏と人間圏ぐらいですから、それを超えてまで文化を定義しようとしても非常に難しくて、何も言えません。ただ、こういう生き方、われわれ人間が地球の上でやっている生き方をどう考えたらいいのかという意味では、私自身はある考えを持っています。

     現代という時代の特徴の一つは、宇宙から見たときに、われわれの生き方が見えるということです。現代という時代のそれが特徴だと思います。たとえば夜半球の地球を見たときに、こうこうと輝く光の海が見えます。これをどう考えるかということです。

     宇宙から俯瞰すると、地球という星は一つのシステムとして見えるわけですが、そのシステムの一つとして、現在われわれは人間圏という構成要素を作って生きています。それは生物圏とは違います。

     また、先ほど石井先生はブローデルの文明の定義についてお話されました。私も自然科学的に文明というものを定義してみようと思います。結論を言いますと、「地球システムのなかに人間圏という構成要素を作って生きる生き方ということになるかと思います。

     このように定義しても、文明が生まれたのは一万年くらい前ということになります。これは「狩猟採集」という生き方と「農耕牧畜」という生き方を、地球システム論的に比較することで得られます。狩猟採集は他の動物もしている生き方であって、人間に特有な特別な生き方でもなんでもありません。生物圏という一つのサブシステムのなかで、物の流れ、エネルギーの流れを利用する生き方ということで、人間だろうがサルだろうがみんなやっています。

     これに対して農耕牧畜というのは、地球全体の物やエネルギーの流れを利用する生き方です。たとえば森林を伐採して農地に変える。これは太陽から入ってくるエネルギーの流れを変えることを意味します。アルベドという量が変わります。太陽から入ってくるエネルギーがどのくらい吸収され、どのくらい反射されるかということを変えているのです。また、雨が降ったときに大地を侵食する割合とか、そこに水がどのくらい滞留するかというような時間とかを、大きく変えます。これを地球システム論的に考えれば、まさに人間圏という新しい構成要素が形成されたといえるのです。

     したがって、人間圏が大きくなれば、地球全体の物やエネルギーの流れが変わるだけで、それがわれわれが問題にしている地球環境問題や資源エネルギー問題、人口問題、食料問題のもとになっています。文化ではないのですが、文明というものを、私はこのようにとらえています。

     現代というのは、文明が誕生した一万年前とは違っています。現代の文明の大きな特徴を言えば、われわれが人間圏のなかに駆動力を持っているということでしょう。システムを定義するときに、構成要素と構成要素の間の関係性と駆動力を考えれば、だいたいそのシステムの特徴がはっきりします。人間もシステムですし、生命もシステムですし、生物圏もシステムですし、機械もそうです。何でもそうなのですが、結局、構成要素と関係性と駆動力を考えれば、どのシステムもそれぞれに特徴づけられます。

     現在の人間圏というのは、内部に駆動力を持っているのが特徴であるがゆえに、二十世紀に急速に大きくなりました。人口増加でいくと四倍ですが、これは、そのままいけば人間の重さが地球の重さになるのに三千年かからないというたいへんな増え方です。こんな生き方がいつまでも続くはずがないのはきわめて明らかです。しかし、文科系の方々の間ではそういった定量的な議論が出てこないので、地球環境問題などはどうしても倫理的な側面で語られます。

     宇宙から見るということは、比較を通じて、普遍性を求めることだと先ほど言いました。もう一つは「俯瞰する」という視点です。俯瞰する視点とは、システムとしてものを見るということです。それからもう一つ、「相対化する」という視点があります。普遍化と相対化と俯瞰的視点というのが、宇宙から何かを考えるということですけれども、これがわれわれが学問を発展させる過程でやってきたことです。

     最後に、人間文化研究機構に何を期待するかということを述べたいと思います。結局、今われわれが問われているのは、「われわれは、これからどこへ行くのか」ということではないでしょうか。「どこから来たのか」に関しては、二十世紀までにおおむねわかりましたので、かなりのことが語れると思います。私が今語ったようなことは二十世紀にわかったことです。しかし今後は、どこへ行くのかということを本当に考えなければいけない。科学とは、技術とは、あるいは文明とは何か、それをもう一回考え直すということです。

     そのときに、先ほど日高先生もおっしゃって、私もまさにそう思っているのですが、われわれは脳のなかに外界をいろいろな情報として取り入れて、いろいろなレベルで判断しています。大脳皮質レベルでニューロンがネットワークを作っていて、外界を投影したような内部モデルが脳のなかに作られています。そうした内部モデルと外界とを絶えず対照させながら、いろいろな判断をしているのです。内部モデルというのは、ある種幻想といえます。外界を投影した幻想にすぎないわけですが、そこで、われわれがどういう内部モデルを作っていくのか、どのような共同幻想を作っていくのかが、これからのわれわれの方向性を考えるうえで重要だと思います。

     このような問題は、まさに人間文化研究機構でないとできないと思っています。話したいことはまだあるのですが、いったん終わらせていただき、後ほどのディスカッションでまた話したいと思います。

  • 長野
  •  ありがとうございました。
 
 
文化のDNAを探る
  • 長野
  •  では、最後に永山國昭先生です。生物物理学という分野のご専門で、いろいろ研究環境の違うところで多くの研究をなさっておられます。DNA関係の特許も取得されて、その会社ををアメリカにお持ちです。よろしくお願いいたします。
  • 古橋
  •  自然科学研究機構の一人としてお話したいと思います。私がこれから話すことは、これまでの方とかなり決定的に違うと思います。

     この地球には「自然・物質の世界」(物質圏)、「生物の世界」(生物圏)、「人間の世界・社会」(人間圏)があり、進化的に発展してきましたから、皆さんはなにかつながっているという感覚をお持ちだと思います。また、動物の文化という言い方のなかには、人間文化と動物文化には連続性があるという考え方が含まれていると思います。

     しかし、私はそう思っていないのです。人間圏と生物圏と物質圏には決定的な断絶があると思っています。そのあたりから始めて、そのうえで科学と技術の問題、これから行くべき人間の社会の問題、最後に人間文化研究機構に何を求めるかをお話したいと思います。

     最近、知己の山本義隆さんが『磁力と重力の発見』という本をお書きになって、話題になりました。サイエンス(科学)は、ギリシャ以来の人間的営為、精神エネルギーの発露の一つですけれども、この本を読んでみると、科学は「自然哲学」として始まったということが綿々と書かれています。「世界観をどう構築化するか」という一つの手段としての科学というのがあったのです。

     今、とりわけ日本では科学と技術が一緒くたになっていますが、もともと科学というのは「科学技術」ではありません。科学においては、そもそも結果を求めることよりも、「途中の方法論や考え方」のほうが重要だった。一方、技術というのは明快で、シビライゼーションの本質でありまして、「結果を求める」ことです。テレビの「プロジェクトX」の世界だと思えばいいのです。あれはサイエンスの世界で全然ありません。技術とは目的を前面に出して、それを追い求める人間の一つの営為です。そのように、科学と技術は本来別のものでしたし、ヨーロッパは今でも完全に分けています。

     そのような自然科学、博物学、自然哲学が追い求めたものは、自然のなかにある法則性、機械的な法則定一性とは何かということだと私は思います。

     物理はそれに見事に成功しました。驚くべき成功だと思います法則性や原理を発見し、それが技術に応用されたときにきわめて大きな力を持ちました。原爆などは典型的な例です。このようなものは百年前にはありませんでした。電気ですら十七世紀、十八世紀にはなかった。磁石すらありませんでした。

     今われわれは、電子(エレクトロン)というものを使ったエネルギーの制御のなかで生きています。そのようなかたちで、法則定一科学としての物理学を基盤とする自然科学は非常に成功しました。とくに二十世紀はすさまじい勢いで成功したと思います。

     そして、二十世紀の後半の1953年に、DNAという決定的な発見がありました。生命の根源を地球型生物といったふうに松井さんはおっしゃいましたが、この地球型生物が物質と違うのは、自分と同じものを生み出せる能力です。それこそが遺伝情報というDNAの本質で、これ抜きに同じものが生まれるわけはないのです。同時に、このような特殊なものが、突然ある物理化学的必然性を持ってこの世に現れる可能性は、ほとんど確立ゼロだと私は思っています。

     もちろん、これには異論もあるのですが、私自身はあまりにも確立が低いと思っていますし、普遍的に起こるとも思えないので、この宇宙には他に生物はいないと固く信じています。ですから、それほど生物と物質は決定的に違うのです。奇跡的と言ってもいいぐらい偶然生まれた動物というものがあって、同じものを作り出しているのです。

     ということは、生物圏は物質科学の法則定一化できる科学とはまったく違う原理を得たということができます。そして、自分と同じものを作る、生めよ増やせよというただそれだけが、生物の原理です。他に何の目的もありません。ただ、いったんそのような原理が生まれると、とめどないのです。とどまりようがないのです。どの程度とどまりようがないかというと、先ほど日高先生がおっしゃったように、今地球上でバイオマスとしてもっとも多いのがバクテリアです。人間ではありません。三十五億年前からずっといて、それぐらいしぶといのです。

     最近テレビで見ましたが、この地球には、完全に凍ったときと、完全に一千度以上の灼熱になったときがあったといいます。それでも生物は生き残れた。それぐらいしぶといのです。それは原理としかいいようがないと私は思うのです。

     ただ、DNAは情報ですから、情報というのは少し間違えます。進化というのは、皆さんがお考えになるのと反対で「ほとんど変わらない」というのが原則なのです。ほんの少しだけ変わる。そして、しばらく固定しているのですが、またちょっと変わる。ですからたいへんな時間がかかります。しかし、その「変わらない」ということが種を固定し、言ってみれば動物というものを明確に作り出しているわけです。ほんのちょっとしか変わらないのですけれども、たくさん積み重なればこれだけの多様性、何千万種という生物が生まれるわけです。

     私の専門は生物物理学なのですが、この学問は、生物のなかに法則定一科学でいわれるような物理的な新しい原理があるかどうかを発見しようとして生まれました。結論は、五十年かかって「ない」ということがわかりました。どういうことかと言いますと、生物の持っているDNA(遺伝情報)は、物理法則では語れないということです。物理法則外の問題なのです。もちろん物質でできていますから、物理法則的な側面を持っています。しかし、プラスアルファがあって、それは今言ったように、遺伝情報として自分と同じものを生み出すという能力です。

     この生物圏のなかから特異なものが生まれました。それが人間だと思います。何が特異かと言いますと、やはり言語を持って文化を作ることだと私は思います。それも情報です。これも、黙っていてもはびこるのです。はびこるものが生き残ると言ってもいい。価値があるものが生き残るのではなく、はびこるものが価値があるというのは、生物でもそうですが、文化でも多分そうだと思います。

     ただ、私に言わせると、文化のDNAにあたるものというのは、まだわれわれは見つけていません。生物の根源である遺伝情報、すなわち同じものを作り出す原理については、われわれはある程度見つけました。しかし、文化のほうではそれを見つけていないです。

     ところで、文化に普遍性はあるのでしょうか。文化というのは半分は趣味、半分は多様性の問題と言ってよい。すると文化には普遍性があるようには見えません。

     DNAの場合、ジーン(gene)といいます。文化の場合はミーム(meme)という言葉があるのですが、その本質は私にはよくわかりません。ですから、文科系の方にはぜひそういうものをやっていただきたいという感じがあります。個別的な多様性を比較するだけではなく、普遍的な何かを見出していただければと思います。

     私のやっている仕事は、生物物理、さらに科学と技術両方に関わっていて、会社をニューヨークに持っています。会社といってもほとんど特許を保有する会社で、特許はDNAの解読に関するものです。

     私は科学技術というのは戦争の次に暴力的なものだと思っていまして、とくに新しい時代を招来するような科学技術についてはそう思います。私が今やろうとしていることもきわめて暴力的なので、その抑止力が欲しくて、そのために文化のことを少し考えているのです。文化は、本当はそういうものの抑止力であってほしいという気持ちが、私の中に根源的にあります。

     小学校か中学校くらいのとき、「文化とは何ですか」と聞いたら、「人間のエネルギーを戦争のようなことに使うのはよくない、文化にエネルギーを使いましょう」みたいなことを言われた記憶があります。人間はなぜ文化を生み出すのか。僕はそこには完全に生物学的理由があって、やはり脳が大きいことだと思います。

     われわれが呼吸している酸素のうち、優に三分の一が脳に使われています。脳にこれほど多くのエネルギーが使われているならば、何か生み出すに決まっていて、いいものも悪いものも生み出します。そのなかに、文化というものがかなり上質なものとしてあるのでしょう。科学技術も私は上質であると思いたいのですけれども、それが持つ影響力はきわめて大きいし、危険でもあるので、慎重にならなければならないのです。それをどうするかというのが、二十一世紀で最大に重要なことだと私は思います。

    さて、私がやろうとしているDNAの解読ですが、これは今までの方法の千倍の速さで読もうというものです。現時点では、たとえば人間一人のゲノムを読むのに三十億円かかります。しかし、千分の一になれば三百万円です。人間一人一人のゲノムを三百万円で読めるようになる装置を本当に作ろうとしているのです。特許はすでに出しており、アメリカで保有しています。

     私自身はこれが持っている恐ろしさ、このようなものが日常化したときどうなるのかという恐ろしさがあります。たとえば原爆、人間が原子の力を解放したときと同じように危険です。生物というものすべてが持っている遺伝情報、生命の根源を全部読んでしまおうというシステムですから、これはやはり非常に暴力的なものだと思います。

     ではどうすればいいのかというのは、自分自身に対する問いかけでもありまして、私は数年前から自分に問いかけているのです。問いかけるだけでなく、いろいろな組織を作って、科学と社会の関係であるとか、そういった問題を一生懸命仲間と一緒に考えています。そのようなときにお話しする相手は、やはり文科系の方なのです。ですから、私は文化が必要だと言っているのです。人間が作り出す非常に暴力的なものを抑止できるものとして、やはり、人間が作り出す文化の力というのがあると思います。それも人間の精神エネルギーだと思います。ですから、その部分を確固たる研究としてやることを、もうちょっと考えていただきたい気がしているのです。それが、私が人間文化研究機構に要求することです。

     現在の私の場合、自分自身の暴力性を抑えるいちばんの方法は、山に行くことです。山に行って自然のなかに入り、自然科学の根源は自然だということを何度も自分に言い聞かせます。それで「自分は自然なのだ、一部なのだ」と思い、危ういものを何とか抑えようとしているわけです。

     これと同じようなことを、多分人びとはみな、人間文化というもののなかで日々しているのではないかと思うのです。ですからそのことをきちんと明文化して、なおかつ、先ほど言った三層、すなわち物質圏、生物圏、人間圏における、文化というもののDNAをはっきりさせることはできないだろうか。それが見えてくると、文化はかなり普遍的な力を持って、科学技術といったものへの対抗力になりうるだろうと思うのです。

    しかし、今はまだないです。失礼かもしれませんが、まだ趣味の領域にとどまっているように思えます。むろん、私だって趣味を持っていますので、それを否定するわけではないのですが、今、自然科学研究機構ができ、人間文化研究機構ができ、何事かを学としてなすならば、少なくとも自然科学研究機構でわれわれが生み出すようなかなり暴力的なものを押さえ込めるだけの力を、人間文化研究機構も持って欲しいと思います。これが、私の今の言いたいことです。

  • 長野
  •  ありがとうございました。