パネリスト
猪木武徳*/小林傳司*/野村雅一*/嘉田由紀子*
司 会
鷲田清一*
 
コミュニケーションの回路
  • 鷲田
  •  それでは、パネリスト四名の方々とともに、人文学、あるいは文化の研究というものと社会との関係というテーマで、ディスカッションに入りたいと思います。本来ならばこういうシンポジウムのときには、各パネリストの方に他の発表をされた方々へのご質問やご意見をお伺いするところから始めるのですが、本日は人文学の研究者らしからぬ、体を張った研究をなさっている元気な方ばかりですので、座談会のように丁々発止、できるだけたくさんお話いただけますよう、また、お互いのお話の中にご遠慮なく割り込んでいただいてけっこうです。

     それでは最初に、ご講演いただきました嘉田さん、ご発表から少し時間がたちましたので、むずむずされていると思います。口火を切ってください。お願いします。

  • 嘉田
  •  今日のテーマの「人文学と社会の新しい関係」は、言ってみれば、いかにコミュニケーションの回路を作り出すかということだろうと思っています。私自身はもともとただひたすらにアフリカに行きたくて探検部に入りたかったのですが、女人禁制ということで、入口で拒否されました。それが昭和四十四年で、そのあたりから人とコミュニケーションの回路を作るにはどうしたらいいかと、いろいろ悩みながらやってきました。最初は農村社会学ということで人と人の関わりだけを考えてきたのですが、昭和五十六年に琵琶湖の研究を始めることになり、ここで出会った人たちは化学、生物学、物理学の人たちばかりでした。つまり、今日の小林さんのテーマであります「 Science Technology and Society 」です。その部分にどのように回路を作り出すかということが、私自身の大変な悩みだったわけです。

     そんなところから、いつも気にしていたことがあるのですが、今日、コミュニケーションの回路をどう作り、その中にどう線路を敷いて電車を走らせ、その電車にどのようなメッセージを込めていくか。発する人と受け止める人。そのあたりを問題提起として質問をさせていただけたらと思います。

     猪木さんがおっしゃっていたところから出てくるのは、自己と他者ということでしょうか。いわば日本の問題を見るのは、外から見る。これは人類学のかなり基本的なテーマですが、自己と他者をどうつないでいくかというところに、どんなコミュニケーションの回路が可能なのだろうかということが一つ気になっています。

     もう少しありていに言いますと、私は自己と他者の関係では、言語の問題がたいへん大事だろうと思っています。それは単に、たとえばスワヒリ語とのコミュニケーションとか、英語の翻訳といったこと以上に、たとえば私たちがいま何気なく物事をきれいとか、汚い、安心などと言うその言葉に込められた意味は、自分流の表現と他者流の表現とで違いがあります。そこの部分が大事ではないか。

     それから、小林さんのお話の中から引き出させていただいたのは、やはり感性と論理というのでしょうか。これもかつてからの大問題ですが、今日、私が言わせていただいた制御論と共感論の背景にはこれがあります。論理的に説明がつくことと、わかるけれども共感しないし行動もしないという感性の問題。そうした論理と感性の部分が、科学技術において社会にコミュニケーション回路を作るときに、かなり大事ではないだろうか。

     それから、野村さんの大道芸のお話のところからいただいたのは、あのパフォーマンスから何をどう受け止めたらいいのだろうということです。これも小林さんのお話にあった具象と抽象との絡みになるのですが、どこまで具体(具象)だったら、ある意味コミュニケーションの回路が作れるのか。逆に具象すぎてしまったら意味が伝達できないだろう。その具象と抽象のころあいを、ぜひとも野村さんに教えていただけたらということで、質問をさせていただきます。

     それから、小林さんのお話の中から引き出させていただいたのは、やはり感性と論理というのでしょうか。これもかつてからの大問題ですが、今日、私が言わせていただいた制御論と共感論の背景にはこれがあります。論理的に説明がつくことと、わかるけれども共感しないし行動もしないという感性の問題。そうした論理と感性の部分が、科学技術において社会にコミュニケーション回路を作るときに、かなり大事ではないだろうか。

     それから、野村さんの大道芸のお話のところからいただいたのは、あのパフォーマンスから何をどう受け止めたらいいのだろうということです。これも小林さんのお話にあった具象と抽象との絡みになるのですが、どこまで具体(具象)だったら、ある意味コミュニケーションの回路が作れるのか。逆に具象すぎてしまったら意味が伝達できないだろう。その具象と抽象のころあいを、ぜひとも野村さんに教えていただけたらということで、質問をさせていただきます。

  • 鷲田
  •  コミュニケーションの回路を作るというのは、なかなか難しい問題です。たとえば大学や研究所といった専門家集団と市民一般との間のコミュニケーション、あるいは研究機関とその外部とのコミュニケーションという問題もあるでしょう。嘉田さんはそこから始められて、今度は地域の人との間のコミュニケーション回路というところにまで踏み込んでいかれました。そのもっと手前に、専門家同士の間でも、いまおっしゃったように化学と物理と社会学の専門家が互いに話をできないというような、部門別、専門領域別の問題がある。なにか三重の意味で、いまの私たちのコミュニケーションはうまくいっていないように思います。

     それから、またコミュニケーション回路を作る場合も、必ずしもすべて同じではなく、場面場面それぞれにふさわしいコミュニケーション回路があるだろう。医療の現場、あるいは原子力発電の現場などいろいろ考えていって、コミュニケーションの回路が、この現場にはいったい何がいちばんいいのかということも、また問題になるかと思います。

     いま嘉田さんが猪木さん、小林さん、野村さんに、それぞれ一つの質問をしてくださったときに面白いと思いましたのは、猪木さんに対しては言葉と体、小林さんに対しては論理と感性について、それから野村さんに対しては、抽象・具象のレベルの問題。それぞれに微妙に水準をずらせてご指摘いただきました。私も勝手にいろいろな回路があることも付け加えましたが、どなたからでもけっこうですので、お話いただければと思います。

 
 
リスク・コミュニケーションの問題点
  • 小林
  •  今日の嘉田さんのお話と私の話はわりあいに近い分野で、感性と論理、制御論と共感論という話をされたと思います。そして、いま制御論に対する見直しの時期が来ており、共感論をある程度入れないといけないといったお話でした。そして、理屈はわかるけれども、やはりそうは行動したくないという場面があるのをどうするかということも言われたと思います。これは私もコメントしたいなと思っていたことと触れ合っている部分があります。また、最後のほうで、リスク・コミュニケーションという言い方をされたと思いますが、そのリスク・コミュニケーションのときに、とくにこの問題が顕在化しやすいと思います。

     つまり、リスクというものを科学的な計算によって確率として出す。そうすると、理屈はこうなのに不安に思うのはけしからん、それは感情論であるという議論が、常にぶつかる。いま、リスク論、リスク・コミュニケーションは大流行なのですが、私はこれに関しては非常に違和感を持っています。

     私のコミュニケーションに対する基本的なスタンスは、「話せばわかるというのはウソだ」というところからスタートしています。話せばわかるときもありますが、ほとんどの場合はわからないところからスタートしなくてはいけない。これが一つです。それからもう一つは、自分と同じような知識、あるいは自分と同じような考え方をすることによって、社会はよくなるという発想にたどり着くような理論の組み方は、間違いだというところです。

     それではリスク論の何が気に入らないかというと、非常に多様な、それこそ嘉田さんがインタビューに行かれたときに見えてきた洪水現象は、リスク論というフィルターを通してだけ見る必要はないわけです。リスク論というフィルターを通すことによって、非常に特定のフレーミングにはまってしまうのです。そして、科学の数字か感情かという二項対立がまず作り出されて、そして感情のほうでいくと、非合理だといわんばかりの議論になる。私はそうした構図をまず疑うべきだと思っています。

     リスク論的に言えば、たとえばヘビが出てきたとします。このあたりに存在するヘビで危険なものはまずありません。ですから、リスク論的に言ったらあなたが怖がるのはおかしいということになる。でも怖いものは怖いわけです。怖がって何が悪いかという話です。

     そういう構造というものが、まずスタート地点に置かれるべきである。しかし、リスク論は、それを数字によって一方的に啓蒙しなくてはいけないといった問題の立て方の方向に行くのです。そこで、まず私は「感性と論理」というような枠組みに引きずり込もうとするリスク論を、とりあえずは一回疑おうと思っています。

  • 猪木
  •  お二方の問題提起で、ちょっと私が自分の関心と結びつけて理解したのは、専門家と非専門家、専門家とアマチュアの問題です。たとえば日本でもそうだと思いますが、われわれは民主制のもとにある高度に発達した産業社会にいます。原子力工学の問題や生命遺伝子の操作の問題など、多くの人がほとんど知識を持っていないような分野の政策が、大衆社会の中で民主制のシステムで決定されるわけです。形式的にはある法律案として議会に提出され、そこで決まるわけですが、そのときに個人個人の政治家が技術的な問題に関して完全な理解力を持っているとか、あるいは持つべきだという要求は、ほとんど不可能だと思います。そうしますと、現在すでに行われているように、ある専門家グループから、それに関してリスクの問題も含めた知識なり情報が提供される。

     ところが、現在の政治のシステムとして、われわれはどの議員さんがどのような考え方を持って、どのように法律案を説明し、通そうとしておられるかということをほとんど知ることができません。そうすると、専門家の知識と、私のようにそういう知識を持たない者が、あるテクノロジーの使い方に関していいか悪いかを判断できるのか。これはよく考えれば、たいへん深刻かつ難しい問題だと思います。外国では、そうした問題に対する対処法がいくつかあると聞いています。その一つは、小林さんが先ほどお話になったSTSでしょう。

     非常に特殊な物事について、論理を追うことができる、あるいは論理で説明することができるのは専門家だけです。ほとんどの人間はわからない。たとえば原子力発電所で事故があったとき、その被害の度合いはどれぐらいかというようなインディケーターがあるそうで、それが新聞などに書かれるわけです。われわれはわかりませんから、新聞に書かれていること、あるいはひどい場合には見出しだけを鵜呑みにして、なんだか大変なことが起こったと反応せざるをえない。この度合いが、日本はちょっと強すぎるのではないかということを、私は感じます。

     テクノロジー・リテラシーという言葉がありますが、初等教育、中等教育で、ある科学技術なり、技術のテクノロジーの簡単なメカニズムや社会的な意味、それからリスクはどの程度かといったようなことをテキストとして教育カリキュラムに入れていないのは、OECDの中でつい最近まで日本だけだったということです。これは非常に残念な現状だと思います。論理だけではなくて、実感したり、感情的に物事をとらえたりすることもある程度大事にすべきだということはわかるのですが、そのあたりの教育的なバックグラウンドを小林さんはどのようにお考えなのか。日本の現状に関して、ちょっと説明をお聞きしたいと思います。

 
 
科学技術とパブリック・ディスカッション

 

  • 小林
  •  まず、専門家がすごくタコツボ化しているために、カバーしている領域がたいへん少ないということが一つあります。それから、非常に安定した科学的な知識と、ものすごくフラジャイルで不安定な状態の知識と両方あるのです。私は学校の理科教育のいちばんまずいところは、科学はきわめて安定した正解を与える知識生産システムだというイメージを、少々強く与えすぎていることではないかと思います。

     たとえば原子力発電所には安全装置がたくさんついています。三重くらいについているものがありますが、この一つ一つが、同時に全部ダウンしたらどういうことが起こるかという話をすれば、専門家はみな一致して「たいへんなことが起こる」と言うわけです。これは科学的な答えであって、そこはもう感情論もクソもないわけです。ここは科学的に、絶対に暴走が起こるわけです。

     ところが、次のステップへ行きまして、その確率というのはいったいどのくらいなのかという話になります。そうすると、三つが同時にダウンするのは「確率がとても低いです」という話になる。その辺になると、前提の置き方によって専門家の意見もぴしっと収斂はしなくて、一定の低い幅に入ってきます。分散が起こります。

     さらにもう一つ重ねます。このたいへん低い数値を「ネグリジブル(まず起こらない)」と考えていいのか、「起こってしまったら、とんでもないことになるので対策が必要」と考えるのかという問いになると、これは科学では絶対に答えられないのです。科学者が答えられなくなる問いなのです。こうしたことについて、一九七〇年代にアメリカの核物理学者、原子力工学の専門家のワインバーグという人が、そのような領域が存在しはじめている、それを「トランスサイエンス」というと言いました。そして、そうした場面についてどうすべきかについてワインバーグが何と答えたかというと、「パブリック・ディスカッションに持っていくしかない」と言っているのです。

     当時のソ連の原子力発電所は、安全装置が手薄でした。なぜかというと、パブリックのインプットがないので、エンジニアの感覚で「まあこれでいいだろう」となるからです。ところが、アメリカではそうはいかなかった。なぜいかなかったかというと、アメリカにはパブリックの議論が入ってくる制度がある、あるいはそうした感覚がある社会だからです。エンジニア(専門家)の感覚からすれば、パブリックに議論をされたら話がややこしくなってたまらない。変な誇張や感情論になる。それはわかっているが、やらなければいけない、賽(さい)は投げられた、そういう時代になったのだと。そこをパブリックに開くことこそがアメリカのよさであり、強みなのだという議論を一九七〇年代にやっています。

     

     日本の原子力発電所はアメリカからの輸入装置です。ですから安全装置がちゃんとついています。しかし、アメリカのエンジニアがそのような議論を重ねた思想、三重の安全装置に至った思想、要するに社会と科学技術のインタラクティブな関係の部分は抜け落ちています。メカニズムとして三重の安全装置がついた原子力発電所を持ってきただけです。

     日本のリテラシーというのであれば、エンジニアのリテラシーのほうに大きな問題があって、しかもパターナリスティックに大丈夫ですというような約束をしすぎてきた。ですから、失敗したときのツケが大きい。それで不信感を持たれるという構造になっているのだと私は思っています。

 
 
人文学の持つ説明体系

 

  • 嘉田
  •  小林さんがいま原発のことを言ってくださいました。いわゆる専門家が、まさにパターナリスティックな安全を、素人といわれる社会に対して出してきたというところの問題が、今日、私が述べたかったことの一つです。原発の場合には、それ自身がすでに人為的なものですし、政治性が入るのですが、それを自然災害に置き換えてみたらどうか。大雨という人間が管理しきれないもの。その途中に入ってくる技術なり、あるいはテクノロジー、その背景にあるいわば専門家の知識が、まさにいまのように、これを出したら社会が不穏になる。行政が全部管理をしていたらいいのだからという形が、パターナリスティックなのです。そして、そのパターナリスティックなものに対して、これでは守りきれない、危険は危険で表に出さなければいけないと私たちは言い始めています。

     

     そのときに、最終的にある程度の確率論で、「Aの確率でやるには、これだけの費用がかかります」「Bの確率では、これだけの費用がかかります」「Cではこうです」と出したとしても、専門家が出せるのはそこまでです。最終判断するのは、納税者であったり、あるいはそこで被害を受けるかもしれない人たちです。その人たちも、自分が被害を受けるという問題なのか、それとも確率論で十万分の一なのかというところで判断が分かれます。十万分の一の確率であったら「いい」と言えても、「あなた自身のことですよ」と言われたら、いいとは言えないだろう。対象が私自身になるときには、ゼロの確率にもっていってもらわないと困るんです。ですから、科学というのは三人称的には説明できるけれども、「あなたが被害者になります」とか、あるいは「あなた自身はそれを受け止められますか」という一人称に関わる説明体系を持たないのです。

     しかし、私は人文学は、そこに説明体系を持ちうると思うのです。これは私が琵琶湖の研究をやりながら、自分自身に課してきた役割です。確率論的に百分の一、あるいは一万分の一でも、それはなぜ私なのか、私の家族かというときの「自己納得と他者説得」の論理と知恵と、そこで生きるうえでのウィズダムです。それがエスノグラフィーやライフヒストリーといったところで見えてくるのではないか。人文学は、価値論というところでその手法を持っていると思います。

  • 小林
  •  おっしゃるように深刻な問題で、私も最近ずっとそれを考えているのです。いま私が思っているのは、確率論的な計算が正しいとしましょう。そうすると、それが何を意味しているかというと、論理的には事故が起こるということですね。確率がゼロでない限り起こるということです。いつ起こるかわからない。もちろん確率は低いけれども、起こりうるということです。そうすると次のステップは、どうやって失敗するかということを考えたほうがいいと私は思っているのです。いままではどうやって成功するかの議論をしてきたのですが、いまはどうやって失敗するか。言ってみれば、納得のいく失敗の仕方という問題の立て方をしたほうがいいのではないかと思うのです。

     これまではとにかく、専門家なり行政なり、非常に特殊な集団がパターナリスティックに成功保障をするような形でやってきたわけです。ですから、失敗したときは話が違うではないかといった議論になった。ですから、あるしくみを作って、それでも失敗したら仕方がないねという形に問題を立て直す。そのためには、議論に参加する人たちの基準も変えないといけないわけです。失敗したときに被害をこうむる可能性のある人たちも加わり、その人たちもともに考えてある形を築き上げ、それでも失敗したら仕方がないというように納得できるようにする。なんでもかんでもそのような方法でやればいいわけではありませんが、確率論的な議論が絡んでくるところでは、納得のいく失敗の仕方ができるガバナンスを作るというのが一つの考え方かなと思っています。

 
 
専門知と非専門知
  • 鷲田
  •  「歩く」人文学の議論ですが、けっこうスピーディですね。どんどんいろいろな問題提起が出てきていますので、ちょっと整理をします。いまの最後の問題、あるリスクをめぐって、確率論的にはわかるけれども、それがたまたま私に、私たちに起こってしまったときに、なぜ私の身にということがわからない。災害だけでなく病気などでもそうです。この病気が何パーセントの確率で、何歳ぐらいの人に起こるといったことは知っていても、いざ自分の身に起こったとき、「なぜあの人は癌にならないのに、私が癌になったのか」となかなか納得できないものです。技術畑の方面では確率論的な説明はできても、人に納得させる手段を持たない。しかし、人文学のほうは、人が納得できるプロセス、あるいはそのことを納得しなくてもよいのだと思えるプロセスに関与できるのではないかというのが嘉田さんのご意見です。

     そして小林さんは、そうした齟齬も織り込んで、説明する側も納得する側もあらかじめ織り込んだコミュニケーションの形を考える、そして納得する側がどのように関与するかというプロセスそのものが重要だということを言われたと思います。

     ここに至るまでに、いろいろな問題点が共有されていたと思います。一つは、今日ディスカッションの最初のところで、専門家と非専門家の間のコミュニケーションがうまくいかない。その間に回路を作ろうとしたときに、これまでの議論で見えてきたのは、一つは専門家の中でも決して一枚岩ではなくて、いろいろな不確定な要素がある。専門家たちが共通の意見を持つとは限らないということです。

     一方、参加する一般市民のほうにも問題があります。一般市民とはいったい誰でしょう。たとえばコンセンサス会議などに出てこられる方というのは、ある種、自分なりに勉強し、情報も集め、そして何が問題なのか的確に知りたいという方が多いです。その一方で、猪木さんがご指摘になりましたが、新聞やテレビを見て、ある相撲取りの兄弟げんかに思い入れたっぷりに反応してしまうようなのと同じことを、原発事故のときなどにやる方がいる。そうすると、コンセンサス会議というコミュニケーションの回路に市民が乗る場合、問題意識を持って自主的に情報を集めて考えている人と、物事にアトランダムに感情的に反応する人とを「一般」という名でくくって、同じ土俵に乗せていいのかという問題があります。

     そうすると、専門家と非専門家のコミュニケーションを、というところから議論は出発したのだけれども、じつはその専門家というのも市民というのも、どういう意味で専門家なのか、どういう意味で非専門家なのか。そのことをもう少し細かく見ていかないことには話が始まらないことが、一つ見えてきたのではないかと思います。

     では、専門家と非専門家の間のコミュニケーションというときに、われわれはその各々をどのように規定したらいいのか。それから人文学がそれに関わるときの専門性とはいったい何なのだろうということも、けっこう大きい問題だと思います。たとえばコンセンサス会議のような場所に人文系の人が入っていったとき、やはり専門の議論に対してはわからないこともいろいろあるでしょうが、人文学者がそういうことに介入していくときの専門性というのはどうなのでしょうか。

 

総合討論(2/2)へ続く