動物という文化―そもそも文化とは何か

 
 
日髙 敏隆 *
 
いろいろな動物を「文化の問題」として考える

 これから基調講演なるものをいたしますが、こういう話をしてよいのかどうか、本当によくわかりません。非常に変なお話をいたします。むしろ楽しんで聞いていただければと思います。

僕自身は動物行動学、要するに動物学をやっている人間です。それがどういうわけか、総合地球環境学研究所というところの所長ということになってしまったわけですが、それなりに一生懸命やっているつもりではあります。

 さて、ここにお見せするのは、僕が作った『玉川児童百科大辞典』という本に、有藤寬一郎さんという方が描いてくださった絵です。どういういきさつでこんな本を作ったかということは後でお話しますが、このなかにいろいろな動物が描いてあります。よく見てみますと、みんなとにかく変な格好をしています。さまざまな格好をしています。どれも非常に不思議な構造をしていて、全部動物です。人間の絵はこのなかに入っていませんが、当然、このうちの一つです。

こういう動物がいったい何であるかということについて、動物学者たちは「これは進化したのだ」と考えます。ここから動物の進化を解くわけで、地球ができてから単細胞生物ができて、だんだん複雑になって、そして多細胞になって、それがさらにどんどん高等に進化していって、最終的に「とうとう人間ができた」というのですが、さすがに今ではそうは思われていません。とにかくいろいろな動物ができて、高等なものができてきたのだということです。

 昔はよく「アメーバから人間まで」という表現が使われました。それを絵にしたのが図①(上の絵)です。それはかつての思想の特徴を示していたのだと思います。人間はそのなかで「万物の霊長である」というので、おサルと類人猿と人間を合わせて「霊長類」と呼ぶことにしたのですが、よく考えるとずいぶん思い上がった名前だということになります。

 ダーウィンが進化論を唱えてから、進化ということがあるのはだいたい信じられておりまして、確かに進化は起こったのだろうなと思うのです。そして、単細胞生物という単純なものから複雑なものへとどんどん進化していって、人間も含めてこのように複雑きわまる動物ができてきたということです。それはわかるのです。

 ただ、地球の誕生から何十億年もたったという現在でも、単細胞の生物というのはまだたくさんいるものです。アメーバとかゾウリムシとか、まだいっぱいいます。カイメンというのもおりますが、あれは非常に単純な動物だそうです。単細胞になったばかりのものだと思われています。しかし、このカイメンもまだ海岸に行くといっぱいいます。さらに脳も心臓もないクラゲとか、そういうものもたくさんいます。なぜそういう下等なもの、いわゆる原始的なものがまだたくさんいるのだろうかということがよくわからなくなってくるのです。

 僕自身は旧制高校を終わって、東大の動物学科というところに入りまして、動物学をやろうと思っていたときに、漠然と「なぜそんな進化していないものがいるのだろうか。進化して複雑になって、どんどん高等になったら、高等なものだけが今残っていて、だめなものはもういなくなっているはずじゃないかと思うけれども、それがいる。なぜなのか。もしかすると、生きているという意味ではすべてが同じ価値なのかな。どれが古いとか、どれが下等だということはないんじゃないか」というようなことをずっと考えていました。

 それからしばらくして、有名な文化人類学者のレヴィ=ストロースという人が言ったことをあるもので読み、ショックを受けました。彼が言ったことは、もちろん皆さんもよくご存じのとおり、人間にはいろいろな文化があるけれども、どの文化が進んでいるとか、どれが遅れているとか、そういう問題ではなくて、それはみんな「パターンの違い」の問題だということでした。

 それの何にショックを受けたかと言いますと、生物学のほうでは、これは進化している、これは下等だ、これは古い、これは新しい、これは単純だなどと言っているのに、文化人類学のレヴィ=ストロースは、それは単なるパターンの違いだとおっしゃったことです。「文化人類学はそこまでわかっているのに、生物学や動物学はなんにもわかっていないではないか」と思い、そんな学問を一生やる気がしないような気もしたのです。しかし、やはり動物が好きなので、動物学をやりたいと思いました。

 そうすると、考え方がずっと変わってきました。いろいろ見ている動物を、進化、進化と考えないで、みんなパターンが違うのだ、こういう生き方、ああいう生き方と、いろいろなものがあるのだとは見られないだろうか、ということを考え始めたわけです。

 動物学科などというところに入りますと、就職口がなかなかありません。大学の先生しかなるものがないですから、ほかにつぶしがきかないし、役に立ちません。ですから、全然就職口がなくて、その間もんもんとしておりました。そのもんもんとしている間に、やはりいろいろな動物がいるということは進化の問題だろうけれども、文化の問題として考えることはできないだろうかということをずっと考えていました。

 それで、大学を出て、大学院も終わって、それからまた何年かしてから、東京農工大学に拾われまして、やっと先生になって就職できました。そこで講義をすることになりました。いわゆる教養部の講義なのですが、何の講義をしようか。やっぱりこの話をしようと思いました。そこで、いろいろな動物がどういうパターンとして生きているかということを自分で一生懸命考えて、そういう話をずっとしていきました。そうしたら、学部の学生たちは、やはりそれがよくわかったようです。非常に面白かったということを今でも言ってくれる卒業生がいます。

 そのころ、ちょうど玉川大学出版部から「『玉川児童百科大事典』というのを作っているので、そのなかの第八巻目の『動物』という巻を編集してくれませんか」と言われました。お引き受けしようかどうしようかと迷ったのですが、そのときに僕の同僚で、もう亡くなられましたが、堀越増與さんという方が東大にいらっしゃいました。この人は海の動物の研究をされていた方で、重荷分類学というか、系統学というか、そういうほうの方ですが、いろいろなことを知ってらっしゃいました。貝とかニョロニョロしたあまり気持ちのよくない海にいる動物などをやっていらっしゃって、その方とは、話がよく合ったので、その人に話をしました。「今、僕はそんなことを考えているのだけれども、そんな本を作りませんか」と言ったら、「よし、やろう」ということになりました。そこで、『玉川児童百科大辞典』第八巻の「動物」というのはそういうものにしましょうということになったわけです。

 
口から入れて口から出す、肛門のない動物
 

これはイソギンチャクの一種で、ハナギンチャクというものです(写真左)。イソギンチャクは皆さんもどこかでごらんになったことがあると思いますが、きれいなものです。触手が花のように見えて植物みたいですが、完全な動物です。エサを捕まえて食っています。触手で魚を捕まえ、口から腸の中へ入れて消化します。

イソギンチャクには触手の生えた胴体があって、胴体の下側で岩にばちっとくっついています。上に口があって、ものを食べる。こういうのがイソギンチャクという動物なのですが、人間で考えますと、口が上にあったら、下のほうには肛門があって、そちらから便をするはずです。ところが、イソギンチャクは下がべたっと岩にくっついてしまっていて、どうなっているのかよくわかりません。

 それで、体が実際にどうなっているのかという構造を見ますと、これは先ほど言った有藤寬一郎さんが描いてくださったのですが、右下の図のような形をしています。要するに、触手があり、胴体があって、それを断面に切ってみますと、中に腸があります。食べたものは上の口から入ってきて、この腸の中で消化されます。そして、肛門はないのです。

 

 われわれは肛門がありますから、そこからちゃんと便をしているわけですが、イソギンチャクには肛門がないのです。口しかありません。食べたものは、腸に入ってきて、そこでぐちゃぐちゃと消化されます。消化されてカスができます。僕たちはカスを出すときは、トイレに行って肛門から便として出すわけですが、肛門のないイソギンチャクはカスを口から吐き出します。彼らはそういうパターンの動物ですから、それは非常によくないとか、下品だとはまったく思っていません。平気で食べては口から出しています。

図を見ていただいてもわかりますが、腎臓などというしゃれたものはないので、細胞から出てくる老廃物は全部腸に入って、便や食べカスと一緒に全部口から出します。尿も便もオエッと口から出す、そういう動物です。下品といったらすごく下品な動物です。

 海にはクラゲもいます。じつはクラゲとこのイソギンチャクはまったく同じタイプの動物でして、要するにクラゲというのは、イソギンチャクがひっくり返った格好です。下に触手があって、口があって、上に腸があります。そして、体が傘のような形に広がっています(下図)。ですから、クラゲも口から魚を食べて腸の中で消化をして、食べカスを口から出します。ただ、クラゲの場合は口が下についていますので、あまりカッコ悪くありません。しかし、構造としてはイソギンチャクと似たようなものです。

 

 そういうことになっているのですが、どちらも腔腸動物というグループで、肛門がないというパターンを持った動物です。肛門がないから、別にフン詰まりになったり、便秘をするといったことはまったくないわけで、ちゃんとそれで生きています。しかも、これはたいへん便利なのです。

 

 何が便利かといいますと、口から食べ物を入れます。入ってきたものは、腸で消化されます。消化されたものは全部腸のなかに行きわたりますから、要するにどこの細胞も全部栄養を取れるわけです。しかも腸は触手のなかまでずっと入っていますから、触手の細胞もみんな消化された栄養が取れるのです。細胞層が二重になっていますけれども、内側から吸収された栄養は外側に出てきますので、全身のどこの細胞も全部栄養がもらえます。触手の先まで全部栄養が行くわけです。

クラゲやイソギンチャクに近いものに、サンゴがあります。これも皆さんご存知でしょうがけれども、サンゴというのはイソギンチャクが木になったようなもので、順番につながっているわけです。右図のオリベアという仲間によく似ています。そこから小さなイソギンチャクがいっぱい生えているようなものですが、木のなかでは腸がずっと全部つながっています。だれかが食べてくれた分はこっちへ入ってきて、消化されたものはどこかへ回っていきますから、だれかが食べてくれれば、みんなが栄養をもらえるのです。ものすごく便利です。

 人間などは、だれかが食べたものはその人の栄養にしかなりませんから、アメリカ人はたっぷり食べているけれども、アフリカなどではみんな飢えています。これが全部つながっていれば、アメリカ人が食べたらアフリカまで全部行くはずなのですが、まったくそういうのとは違います。

 

 ですから、肛門もなくて非常に原始的だと言うけれども、肛門がないということはそんなにまずいことではなく、ある意味でいえばパターンとしては非常に便利な形です。腔腸動物はそれでやっている動物です。だから、この連中はいっぱいいますし、僕たちが海に行くと刺されることもあります。今では人間が造った最新の原子力発電所の水を冷やすところにまでクラゲがいっぱい来て困るということにもなっています。クラゲのほうは原子力発電所など何も知りませんが、エサがあればそこへ行くわけです。エサがあって、それを食って、ちゃんと腸で全身に栄養をとっているわけです。

 腔腸動物というのは進化のうえでは、本当に下等な原始的なものです。単細胞からやっと多細胞になった海綿動物があって、その次にこの腔腸動物。どちらも肛門がありません。

 もう一つ、もうちょっと高等な、いわゆるジストマとかプラナリアのような仲間を含む扁形動物というのがあります。(右図)。このごろ東京ではよく見られるそうですが、頭が昔の髪飾りの笄の格好をしたコウガイビルという長い虫がいますけれども、これも扁形動物の一種です。扁形動物にはかなり発達した神経系がありますが、肛門はありません。

 しかし、肛門がないのはそこまでで、それから後はみんな肛門を持った高等な動物です。

 
 
肛門を発明したけれど…
 

その高等な動物のいちばん最初、つまり肛門というものを発明したのはヒモムシという変な動物です。(写真:上)色のついた紐のようなものです。この仲間の動物は一般に体がものすごく長いのですが、長いものは全長50メートルになるそうです。いちばん大きなクジラが30メートルぐらいでしょう。それよりもっと長いのだそうです。不思議な動物です。そういう動物が肛門を発明した動物なのです。

 

 体の構造を見ると、右の図のようになっています。これは前のイソギンチャクの絵などと同じく、有藤寬一郎さんが描いてくださったのですが、非常に複雑になっていまして、すでに脳があります。神経があって、卵巣のようなものがあります。口があって、そして、体の先っぽからしっぽまで、ずっと腸があります。その腸の上にかぶさっているのが、この動物が持っている「吻針」という非常に特別な装置を収めておく吻針鞘という器官です。吻針という針のようなものの後ろに長い管があって、その管をびゅっと伸ばして、吻針を獲物に突き刺し、そしてその管を縮めながら突き刺した獲物を引っ張ってきて口のなかに突っ込むのです。

 体があまり長いので絵では切ってありますけれども、ずっと後ろのほうへ行きますと、腸の末端にはちゃんと「肛門」があります。このようにして肛門というものが動物の進化のなかで初めてできました。

 ですから、「紐形動物」と呼ばれるヒモムシの仲間の動物はすごい大発明をしたことになるのですが、さてさて、こうなるとどんなことになったかといいますと、つまり、この腸は一方通行になりました。これまでのように食べたものを口から入れて、腸全体で消化して、カスをまた口から出すなどという下品なことではなくて、消化はちゃんと順番に行なわれ、下へくだっていくうちに消化が終わり、大腸のほうへ移動したカスは便のような形になって、最後にそれはちゃんと肛門から体の外に出されます。非常に高級になりました。

 ところが、そうなると困ってしまうのです。つまり、腸の始まりにあたるところでは、まだ消化が始まっていないのです。だから、その辺の腸の細胞は何も吸収できません。ずっと行って真ん中辺りまで来るとやっと消化が始まって栄養を吸収できるので、そのあたりの細胞は栄養をもらえます。けれど、もっと後になりますと、かわいそうに腸のなかを通っていくのは全部カスばかりでどうしようもないわけです。さらに末端に至ったら、なかはフンが通っていくだけです。何ももらえません。でも、体のそのあたりの細胞も栄養が欲しいわけです。どうするのか。しかたがありません。ヒモムシは、摂った栄養を運ぶための血管を作らなければならなくなりました。

 

 要するに、肛門を発明したことによって、腸は機能分化して非常に高尚になったのです。しかし、肛門を作ったら栄養が全部に回るということがなくなったので、今度は血管を作らないと生きていけなくなってしまったということです。

 

 

 僕はこれは面白い、なにか文化とよく似ているなと思ったのです。非常に強引な話ですけれども。

 つまり、人間にはいろいろな文化がありますが、おのおのの文化にはそれぞれにちゃんと矛盾のない、首尾一貫性があるわけです。それでその文化は保たれています。そこに変な文化が入り込んできたりすると、首尾一貫性が失われて、訳がわからなくなってしまうわけです。そうなると、文化はうまく存続できなくなります。本来の文化というのは、そうではなくて、ちゃんと首尾一貫していたのです。

 先ほどの肛門がないならないという状態で、全部がちゃんとうまくいっていたものが、肛門を作ってしまうと、それだけではすまない。血管も作らないとこの動物は生きていかれないということになるのも、そういうものなのではないだろうか。肛門を作ったものは、肛門からのフンが口に入らないような工夫も凝らす必要がありました。コケムシ(写真右)とウニの例をあげておきましょう。

 そして、動物たちはやはりそれぞれを一つのパターンとして考えるべきものではないだろうかという意を強くしたわけです。

 
 
単細胞の文化、殻のある文化、関節のある足の文化、脊椎のある文化…

 こういうふうに考えてみると、いろいろな動物たちの生き方、体の構造をどう使うかということを含めてどうやって生きているかということは、結局その動物に固有のものであって、ほかの動物とは違います。それ自身はちゃんと生きているのだから、みんな値打ちは同じです。生き方が違うだけの話です。それは違った目で見れば、違ったふうに見えるかもしれませんが、生きているという意味においてはちゃんとしているわけです。

 肛門がないと言われても、クラゲはクラゲでちゃんと毎年どんどん増えて子孫を作っています。ヒモムシはヒモムシで、ニョロニョロ長くて変な虫だけれども、ちゃんと肛門があって、血管も作っています。そのかわり、すばらしい脳とかなんとかそんなしゃれたものはありません。ないけれども、それなりにこれはこれでちゃんと生きて、子孫を残していっています。ですから、一つ一つの動物が、みんなそれぞれ一つのパターンなのではないか、どれが上でどれが下ということはないのではないかと思いました。そして、その一つずつの生き方を、その動物の文化と呼ぶとすれば、それぞれの動物にそれぞれの文化があるのだと考えてよいのではないかと思ったわけです。

 僕の場合、何か言われたら「いや、私は一介の動物学者ですから」と言えばすむので、かなり強引に、文化というものをこういうふうに考えてみたらどうかと思い立ったわけです。

 たとえばアメーバとか、ゾウリムシとか、ミドリムシとか、あるいは海にも単細胞のプランクトンがいっぱいいます。ああいう生物たちは、単細胞だからうまく生きているわけです。単細胞というのはある意味では便利なのです。とにかく細胞が一個しかありませんから、なかで酸素を使えばまわりの酸素が自然に入ってきます。なにも息を吸ったりしなくても自然に入ってきます。なかで何か作業をいろいろとやりますと二酸化炭素が出ますが、体の外には二酸化炭素はあまりないので、自然に外へ出ていきます。細胞は一枚しか膜がありませんから、簡単に出入りします。息をするためにいろいろすることはない。ぜんそくを起こすなどということはまったくありません。そういう意味では非常に便利といえば便利です。

 そういう意味で、「単細胞型の文化」、単細胞という文化があると言ってもいいのではないか。たとえば腔腸動物などというのは、「肛門のない文化」と言ってもいいのではないか。また、ヒモムシは「肛門のある文化」の始まりと言えましょう。肛門のある文化には、じつにたくさんのヴァラエティーがあるからです。

 たとえば、体を守らなくてはいけなくなったときに、殻を作ろうと思ったものがいます。それは貝殻を作った貝です。貝は、なかはぐにゃぐにゃですが、殻を作りました。あの殻を作るのも大変だろうし、歩くときも大変だろうと思いますが、まあそれはそれであの連中はちゃんとやっています。ですから、「殻のある文化」というものがあるのです。

 その殻を作るのをやめて、体のなかに脊椎を作って立っていようとしたものもあります。そういう文化としてあるのが、われわれを含めた脊椎動物です。

 骨をなかに作らないで、外側に殻を硬くしたものもいます。それはエビ、カニのような甲殻類とか、昆虫類とかいうような節足動物です。ただし、外に殻があってカチカチにしましたから、そのままだと手も足もまったくどうにもならないので、節をつけました。そこで節足動物というのは足に節があるのです。それで動くのです。体の周りを硬くしてしまったものだから、ときどき皮を脱がないと大きくなれないので、あの連中は脱皮をします。

 われわれ脊椎動物はなかに骨がありますから、脱皮しなくても大きくなれます。逆に困ったことは、太ってしまうのです。昆虫などは殻がちゃんとしていますから、太るということはありません。そういう意味で、何がいいか悪いかはよくわかりません。

 ただ、そうやってみると、いろいろなことで動物を、今のように「殻のある文化」「関節のある文化」「脊椎のある文化」「肛門のない文化」「単細胞の文化」というように呼んでみることはできないだろうかと思ったのです。どれが進化している、進化していないというのではなくて、動物をそういういふうに見ることはできないだろうか、おのおのちゃんと生きて子孫を残しているのだから、そういうことが言えるのではないかと思いました。

 そういう話を、たまたま文化人類学の方々にしました。そしたら、大変叱られました。「動物屋さんが軽々しく文化なんて言いなさるな。文化というのは人間にしかないものです」。しかし、そうなのかな、文化というのはそんなに高級なものなのかなということまで僕は考えたのです。

 ある動物の生き方は一つの文化であると考えますと、その文化の違いによって、その動物の生きる論理が、ロジックが違ってくるわけです。これは非常に大事なことだと思います。肛門のない文化の場合はものを食べて口から出すという論理で全然かまいません。しかし、肛門のあるやつが口から出すのは変です。論理が違います。世界が違うのです。

 たとえば同じイソギンチャクがほかのイソギンチャクを見て、口からフンをしていても、「あいつは下品なやつだ」とか、あるいは「体の調子が悪いんだろうか」ということは全然思いません。しかし、肛門のある文化の動物が、肛門のある別の動物を見たときに、それが口からフンをしていたら変だと思います。ものの見方が違うのです。つまり、世界が違ってしまうのではないか。

 人間も脊椎動物として「脊椎のある文化」を持っているわけですが、脊椎動物にもいろいろなのがいます。たとえば脊椎動物のなかにイヌとネコがいます。これは脊椎動物のなかで食肉類という一つのグループで、草を食べているウシなどとは全然違いますが、それでもイヌとネコはまったく違います。生き方も違うし、したがって世界も違います。ですから、イヌの文化とネコの文化は違うと言ってもいいでしょう。

 そこで、われわれがイヌを飼うときには、そのイヌの文化に従ってちゃんとしなければ、イヌをかわいがったことにはなりません。人間の文化をイヌに押し付けてもしょうがないわけです。実際、人間はそれをちゃんとやっております。その証拠に、夕方になりますと、非常に忙しいだろうと思う人たちが、みんなイヌを連れて散歩をさせています。イヌが散歩しなければならないというのは、あれはイヌの文化なのです。それに従ってイヌの散歩をさせていますから、あれは人間がイヌの文化に従って一生懸命散歩をさせてやっているのです。ネコは散歩などさせようと思っても絶対にしません。あの連中はイヌとは違う文化を持った動物なのです。

 
 
人間はどのような文化を持った動物か

 そのように考えていくと、では、人間はどういう文化を持った動物なのかということが問題になってきます。人間という動物にも、いろいろ特徴がありますが、とくに脳がすごく発達してしまったことは確かです。なぜそうなったかという理由もだんだんわかってきていますが、とにかく、いろいろなことを論理的に考えることができるようになりました。それは大変によかったし、すごいことだったと思います。

 ただし、よかったことばかりではありませんでした。人間は論理的な思考ができるものですから、世の中には死というものがあることを発見してしまったのです。死というものがあることがわかりますと、自分もいずれは死ぬということもわかってしまったわけです。ネコやイヌは多分そんなことを考えているとは思えません。死などというものがあることを知ってしまって、それによって猛烈に悩んでいるわけです。それに対応するためになにか信仰を考えなければいけない、宗教も考えなければいけないということになったのでしょう。それでいろいろなことが始まりました。

 同時に、いろいろなことが論理的にできますので、現実としてそのものが見えなくても、「きっとそうなっているはずだ」と思うことができるのです。そうなっているはずだと思うと、「そうだ、そうだ」という話になっていって、それからだんだん一つの、僕はイリュージョンと言っていますが、イリュージョンができあがります。そのイリュージョンによって、今度はそれが美学になります。つまりそれが判断の基準になって、「こうすることがいいことだ」「こうしなくてはいけない」というようなことがいっぱい決まってきます。その基準は、イリュージョンの違いによってさまざまに違うことになるでしょう。人間というのは、そこまで脳が発達してきたわけですから、おのおのの集団によって、住んでいる場所によってなど、ものの見方がいろいろと違ってきます。そしてそれによってイリュージョンも違ってきて、いろいろな文化ができてくるわけです。

 イリュージョンも含めた論理的思考のおかげで、人間は自然に働きかけ、自然を支配して生きていくことができるようになりました。その結果、われわれは、自然を客体化して見て、自然がどうなっているかということを調べることもできるのです。同時に、技術によってそれをまた変えることもできます。それでいろいろなことをやってきたわけです。自然にはないような美を作ろうということで、芸術も出てきました。宗教・信仰というのはちょっと違った意味ですが、そんなものも作って、そのうえにまた美学が成り立つわけです。そうしていろいろなものができて、現在、人間はいわゆる「文化」といわれるいろいろなものを持っています。これは実際に皆さんもそう思われるでしょうし、当然なのですが、それは人間がそうやってきたからここまで来たということです。

 たとえば、今われわれがいるこの建物にしても、ほかの動物はこんなものは絶対に作れません。人間だからできるのです。飛行機が飛んでいるのを空港へ行って見ますと、やはり感心します。あんな大きなものが飛ぶのは変だとさえ思うのですが、間違いなく飛んでいるわけです。あれはまったく人間が作ったものです。すごいものを作ったと思います。あそこまで人間はよくやったなと思います。とにかく人間は、そういう形でもって、論理的なものでいろいろなことをやってみたり作ったりして、いろいろなものを理解したり、応用したり、さらに新しいものを作った。それが人間の成功のもとです。

 けれでも、逆に言うと、自然を支配しますから、自然から必ず反作用がきます。たとえば農業などというのはそうです。変な草を抜いてしまって、人間に便利なものだけを植えようとします。しかし、自然のほうはもともと変な草が生えていたわけですから、その草を生やしてきます。それを「じゃまだから抜いてしまえ」と、抜いているうちはいいけれども、「除草剤で枯らしてやれ」というようなことを始めると、だんだんおかしなことが起こってきて、結局それからまさに地球環境問題というものが出てくることにもなったのでしょう。

 それではどうしたらいいのか。これからの人間は自然を支配しないで生きていくべきなのか。そもそも人間は自然のままに生きていけますか。そんなことはできません。やはり支配しなくては生きていけません。しかし、変な支配をすれば必ずとばっちりが返ってきます。では、どうしたらいいのか。話はすごく大事なことです。

 そのときにも一つ、価値観の問題があります。今では、もっとうまい支配をすればよいということに価値を置いてものが進んできたと思いますが、本当にそれでよいのか?ということももはや考えなくてはいけません。

 それぞれの動物の生き方がそれぞれの文化であるという意味において、われわれは人間の文化、つまりわれわれの生き方がこれでよいのかということを、もう一度ちゃんと考えてみないといけません。その生き方のおかげで人間はすごいことができました。けれどたくさんの深刻な問題も作り出してしまいました。それはすべて人間の生き方や文化の問題です。

 僕のこの話の後に、今日のタイトルでもあります「今なぜ、人間文化か」というシンポジウムが行なわれますけれども、まさにそういう問題なのではないかと思うわけです。僕自身は、先ほどお話したような、肛門があるとかないとかわけのわからない話から始めましたけれども、やはりそういう話と、こういう人間の文化という話はつながっているのだと、何十年も前から思っているわけです。

そんなことで、今日はこういうお話を聞いていただいて「なんだ、あほなことを言っているな」と思われたら、「すいません」と言うほかありませんが、そういう具合にものを考えてみることも大事なのではないだろうかと思うわけです。どうもありがとうございました。