制御か共感か?水害エスノグラフィーの試み(1/2)

 
 
京都精華大学教授
嘉田由紀子 *
 
忘れ去られた水害の記憶

 本日は「制御か共感か?水害エスノグラフィーの試み」という少々難しいタイトルをつけておりますが、言ってみれば、われわれは水害を押さえつけることができるのか、それとも仲良くやっていくのか、というようなお話をさせていただきます。

 かつて、私たちの身のまわりでは大きな水害が頻繁に起きていました。遠い昔のことばかりでなく、つい最近の二〇〇四年にも、台風によって新潟、福井などで甚大な被害が出ました。にもかかわらず、いま人びとは水害に対して恐怖なり関心なりをほとんど持っていないように見えます。それはなぜなのでしょうか。このあたりについて考えてみたいのです。

 私たちはいま、大阪の中之島にある大阪国際会議場にいます。この目の前を、堂島川が流れております。まずお見せする写真は、一九六一年九月十六日、第二室戸台風のときの様子です(写真①②)。堂島川があふれて、人びとが中之島大ビルの廂ひさしから船で救出されています。

 現在の堂島川には、二メートルほどのパラペットという壁が作られています。今日こちらへ来る途中、タクシーの中で運転手さんにこの写真を見てもらいました。すると、「ああ、それ知っとる」とおっしゃっていまして、「いまはどうでしょうか」とたずねてみたら、「ああ、もう安心ですよ。見てください、この堤防。堂島川はもうあふれません」とのことでした。でも、じつはそうではなく、大阪ではまた水害が起きるおそれはあります。淀川河川事務所が出されたハザードマップを見ますと一目瞭然で、大阪はまっ赤な危険区域なのです。

 自分のまわりは大丈夫、水害など起こらないという感覚は、いま多くの人が持っています。ではなぜ、私たちは自分の身のまわりに水害は起こらないと思うようになったのでしょうか。それが、今日の私からの問いかけです。「なぜ、そう思うようになったのか」「本当に水害の危険性はないのか」「なぜ、私たちは水害がないと安心しきっているのか」。その背景には、いまの日本人の水や川との関わりの意識、それから行政の治水政策の構造が隠されているのではないのかと思っております。

 まず、前置きとして、私がなぜこのような話をしようとしているのか個人的な背景を少し説明したいと思います。

 私は現在、京都精華大学に在籍しておりますが、それ以前は、琵琶湖岸の草津市にある琵琶湖博物館で琵琶湖の研究をしていました。この博物館の前には琵琶湖研究所という研究機関に所属しておりました。私の当時の専門は人類学で、昭和四十年代の学生のときには、電気もガスも水道もないアフリカという土地でフィールドワークをしていました。その後、アメリカで開発社会学のようなことを勉強し、昭和五十年代に琵琶湖研究所に入ったわけです。

 琵琶湖の研究というと、普通は水質問題や水量など、いわゆるモノで語られる世界です。しかし、私が招かれたのはそうではなく、社会学や人類学の立場から琵琶湖を研究してほしいという要請でした。こうして自分の専門のスタンスから研究を始めたわけですが、研究だけでは住民の方たちの琵琶湖への理解は深まらないのではないかと思い、琵琶湖博物館を一九八〇年代中ごろに提案し、創設に参加させていただいたわけです。

 博物館の創設にあたっての趣旨の一つは、「共感の場」ということでした。何に共感するのかといえば、人と水、人と生き物の関わり、つまり環境を単に物質的にとらえるのではなく、実際にここに暮らしている人びとの暮らしとの関わりの中で、水と環境の問題を考えようということです。

 本日のテーマは「歩く人文学」ですが、私たちはまさに地域を歩きまわり、人びとに接し、話を聞き、多くの問題について考えてきました。人びとの暮らしぶりや自然との関わりなどの民族誌を、丸のまま記録することを「エスノグラフィー」といいます。この手法を使って、琵琶湖のまわりに生きる人びとの暮らしを調査し、彼らの経験と記憶をすくい上げ、記録するなかから問題点を析出するという作業をやってきました。そして、そこで実感したのは、かつて人びととたいへん親しかった水が、いま「どんどん遠くなっている」ということでした。

 私は平成七~八年ごろに河川法改正の審議会委員となり、また、平成十一年から現在まで淀川水系流域委員会の委員として行政のほうにも参加しておりますが、ここへの参加によって意識を強くしたのは、「行政による河川政策」と、人びとが抱いている「遠くなった水」の感覚がきわめて密接な関連を持っているということでした。冒頭に申し上げた、「自分のまわりには水害はもう起こらない」という多くの人びとの意識も、同じく非常に関係しております。これは「リスク・コミュニケーション」という人文学の大きなテーマの一つでもあるのですが、その流れから、今日はこのお話をすることにしたわけです。

 
治水をめぐる四つの要素

 私は行政に参加するなかで折に触れて、水がどんどん遠くなっているので、それを「近い水」にしてほしい、また「地域に学ぶ」「川に学ぶ」姿勢を持ったらどうだろうか、すなわち「人と水の関わりの再生」について意見を言わせていただいているのですが、まず、現在の治水をめぐる状況についてちょっと説明させていただきます。ここには次のような五つの要素が関わっていると思います。

 一つ目は、「専門家」の方たちです。これは一種の数字信奉、すなわち数字で物事を理解する立場の方々で、いわゆる数量主義でもあります。

 二つ目は、「行政」の治水政策。これは、堤防を高くしたらいい、あるいはダムを造ったらいいというモノ(ハード)依存です。加えて、危険性があることを知っていても、情報を開示することに躊ちゅうちょ躇する状況があります。たとえば、二百年に一度くらいの大雨が降ったらこの中之島あたりは三~四メートルほどは浸かるはずです。しかし、そのような情報を出すと土地の値段が下がり、経済活動も阻害され、人心の不安もあおるでしょうから、ある意味では無理からぬところはあります。

 三つ目は、「企業」です。企業とは、さまざまな営業活動をして利益をあげることによって成り立っている組織ですので、なにごとも収益優先、効率重視の方向に動きます。

 四つ目は「マスコミ」です。荒っぽい言い方ですが、どうも日本のマスコミはそれぞれの領域の専門家が育ちにくいという側面があり、いきおい行政の発表資料を鵜呑みにする傾向があります。

 そして、最後は「住民」です。いま、住民の多くは「ともかくどこかでやってくれるだろう、税金を払ってさえおけば、国が、県が、行政が」という形での「お任せ主義」になっています。

 現在の治水をめぐる状況、そして水害に対する認識は、このような五つの立場の連関の中にあります。そこで、それぞれの認識のあり方や社会的役割の中で、それぞれが今後どのような方向を探ったらいいのかというのが、今日のテーマです。それを人文学という立場から考えてみたいわけです。人文学というものには定義があるわけではありませんが、大事なことは、「何をどう問題として見るのか」ということであろうかと思います。

 
行政施策と「数量主義」

 さて、私たちはいま大阪の中之島にいますが、ここは琵琶湖・淀川水系の水を集めてくる領域です。それに対して、淀川水系の水が配られる地域は大阪の南のほう、和歌山の境目まで達します。このように、近畿はある意味で水に関しては運命共同体です(図①)。近畿圏の特色の一つは、河川の上流にたくさん人が住んでいるということです。大阪の上流の京都には百五十万人の人が住み、そのさらに上流の琵琶周辺には百三十万人が住んでいます。この点が、たとえば東京の江戸川や荒川、多摩川、あるいは木曽三川のようなところとの違いです。上流にたくさん人が住んでいるために利害関係が対立しやすく、江戸時代には上流、下流の争いが多々起こりました。

 江戸時代、琵琶湖の出口は、瀬田川一本しかないのでどうしても詰まってしまう。琵琶湖周辺には二百の集落があり、その二百の集落の人たちはどうにか瀬田川の川ざらいをして、下流にたくさん水を流して、湖の水害を防いでほしいと必死の要望もしました。しかし、ほとんど実現されないまま、明治十八年、明治二十九年に大水害が起こりました。明治二十九年には琵琶湖の周辺は四メートル近くも浸水しています。琵琶湖博物館では、家屋の天井の辺りに下駄がぷかぷかと浮いた展示物を設けて、この水害のとき水がどこまで来たかを示しております。

 このようなことから、上流の水を下流にしっかり流し、かつ下流の堤防も強くしていこうという目的で淀川の改修が始まり、明治三十八年に南郷の洗堰ができました。これが琵琶湖の人為的な水位管理の最初です。その後も、大正六年、昭和二十八年、昭和三十四年と水害が多発し、昭和四十七年から琵琶湖総合開発が始まります。これは琵琶湖の水を下流の大阪などでたくさん使ってもらい、水害も防ぎ、かつ水をめぐる環境もよくしようというものです。利水、治水、保全、また、それによって上流の地域開発も兼ね合わせようという、言ってみればたいへん欲張りな政策でした。ともあれ、この事業は当時の滋賀県ではたいへん歓迎されました。

 これらの行政施策の中で私が気になることはいくつかあるのですが、たとえばその一つに、琵琶湖の水質汚染対策がありました。水質汚染とは何を指すかというと、水の中に含まれているものの量です。水がきれい、汚いというときの環境基準は窒素やリンの量で、それを測って判断します。窒素やリンという物質は私たちの体の中にもたくさんあるもので、この物質なしでは生きていけません。お米もそうですし、何もかもこの物質なしにやっていけない。ですから、ゼロにはできないのですが、できるだけ減らそうということを始めたわけです。

 たしかにこの昭和四十年代末ごろ、琵琶湖では水質汚染が大きく取りざたされていました。しかし、そもそもそれは水の成分の問題でしょうか。本来的にはもっと全体を、水環境をめぐる全体状況を見るべきだと思います。しかし、水中のある物質が多いか少ないかという点から見てしまうので、政策としては、ではその汚染物質を減らせばよいという一点に収斂されてしまうわけです。つまり、「何を問題として見るか」という視点の問題です。

 私が行政の中に入ってたいへん驚いたのは、こうした数量主義的な側面でした。なぜ水質汚染ばかりが問題にされるのだろう。なぜ物質の量だけが問題にされるのだろう。一時、「石けん運動」というのがたいへんはやったことがあります。これは一般的には住民参加型の重要な取り組みだったといわれていますが、目的はやはり窒素やリンを減らすという、いわゆる数量主義だったのです。それから水をきれいにしましょうということで、行政の広報はずっと「下水道、琵琶湖浄化の第一歩」とうたってきました。行政的な対策というのはいつもそうなのです。

 しかし、本当の問題はそうしたところにあるのではないだろう。私が現場を徹底的に歩き、耳を傾けて見えてきたのは、リンが増えた、窒素が増えた、モノが増えたという類ではないものでした。人びとの心の中にあったのは、自分たちの暮らしと水や湖との関わり方についてでした。そして、地域の人たちがこだわっていたのは、水質云々以上に「水との関わりの喪失」であったということを、彼らの語りの中から発見したのです。

 
水と親しかった昭和三十年代

 地域の住民への聞き取り調査の際、人びとが好んで語ってくれたことに、こんなものがありました。

 一つは、生き物がたくさんいたこと。「この川には、ホタルが顔にあたるくらい、たくさんいた」「ボテジャコがあふれるほどいた」。ボテジャコというのはタナゴのことでいまや絶滅危惧種になっておりますが、そうした小さな生き物が、かつては琵琶湖や周辺の川にたくさんいました。

 二つ目は、生活の中に湖や川が生きていたということ。「この川から風呂水をくんだ」「洗濯をした」「この川の水は昔は飲めた」。それは決して「昔々あるところに」の桃太郎のような話ではありません。昭和三十年代まで、目の前の川の水が飲めたのです。

 それから三つ目は、子供たちの遊び場として大切な場所だったこと。「毎日、川に魚つかみに行った」。琵琶湖周辺では「魚とり」とは言いません。たとえ網を持って捕獲するものでも、漁師さんは「魚つかみ」と言います。

 それから四つ目が、コミュニティによる自主的な治水対策と川への愛着。「大雨ごとに堤防の見回りは自分たちでした」と言っておられました。いまでも多くの地域でいざというとき土を積むなどをしていますが、昭和三十年代までは壊れた堤防も自分たちで造り直していました。いま行政がやっている治水政策、堤防造りなどを、かつては村が独自に住民からお金を集め、村が技術者を雇い、村人が労働を提供し、また企画も村人がして、村の公共事業としてやっていたのです。

 私どもが調べている滋賀県では、そういう集落は例外ではありません。滋賀県だけではなく、淀川の流域、高槻、あるいは枚方あたりでも、かつてはやはり自分たちで見回りをし、堤防を積んだりしていたようです。そういう中から、「川はわしらのものやった」という共生の感覚がはぐくまれていたわけです。

 たとえばこの写真(写真③)は昭和三十一年、琵琶湖岸の沖島というところですが、湖の水は飲み水にし、また洗い物もし、洗い物をしてこぼれたご飯粒はジャコが食べ、そのジャコは子供たちがつかんだりして、おかずになっていました。このような循環は、かつてはごく普通にありました。人びとが集まっているのは湖岸の桟橋で、いまこのような使い方をすると不法占拠になってしまうのですが、昭和三十年代までは自分たちで桟橋を作り、雨が降ったらこれを上げ、水位が下がったら動かしてという形で利用してきたわけです。

 こうした昭和三十年代の琵琶湖の水辺の暮らしを見ていますと、水を保全するために存在していた三つのしくみが浮かび上がってきます。

 一つは、モノのしくみです。まさに目に見える人、生き物、水の循環がありました。

 二つ目は、水を保全する社会的しくみ。これを私どもは「デキゴトのしくみ」と呼んでいますが、たとえば水を時間的、空間的に使い分ける。先ほどの桟橋一つでも、へさきのほうは水を取る場所ですから、そこで汚れ物などを洗ってはいけなくて、おむつなどは村はずれの別の浜で洗う。そうした「使い分け」をしていました。地域共同体としての配慮です。

 そして、三つ目は心理的なしくみです。皆のために汚いこと、不浄をはばかるという意識が、人と人との心理的なつながりに関わってくるのです。私もはばかる、隣の人もはばかる。そういう共同体としての信頼があるから、結果として目の前の川の水が飲めたわけです。

 これに対して、いまはどうでしょうか。たとえば皆さんは、水道の水を飲みますか。私は毎年、新入生二百人ほどに挙手してもらうのですが、飲む人は一~二割で、ほとんど飲みません。「なぜ」とたずねたら、「臭いから」「汚いから」「安心できないから」と答えます。日本ほど安全な水を蛇口から出している国は、世界中にありません。水道技術者の人がしっかりといい水を出しているのに、信頼がない。それに比べて、かつては屋外の自然の水を飲んでいたわけです。それだけ、いまの私たちは水への信頼を失ってしまったということです。

 

制御か共感か?水害エスノグラフィーの試み(2/2)へ続く