制御か共感か?水害エスノグラフィーの試み(2/2)

 
 
嘉田由紀子 *
 
新しい水システムと、人びとの「無関心」
 

 琵琶湖辺には二百ほど集落があり、私たちはほとんどすべての集落を歩きました。かつて、この小さな地域社会の中では、いま私たちが捨ててしまう汚れ物、うんこやおしっこなどのし尿も肥料として利用され、湖の水草や藻や泥も、肥料として畑、田んぼに利用されていました。町の下肥も肥料として、丸子船という大きな船で運ばれて利用され、そのようにして「近い水」が生きていました(図2)。

 ただ、その近い水も、いま述べてきたようないいことばかりだったわけではありません。一つは、やはり労働が大変でした。人間の力でくまなければいけないので、女の人や子供は非常な労力を強いられました。また、琵琶湖周辺ではそのようなケースは聞いていませんが、不埒な人が下痢の下のものを川で洗ったために村中が赤痢になったというような例もあります。とくに水害の後は赤痢などがはやるといわれ、表を流れる水を使うことには確かに危険な側面もありました。

 

 そういうことで、上水道が普及します。琵琶湖周辺では昭和三十年ごろまで水道は全人口の五%しか使っておらず、残り九五%は依然として川の水、湖の水、井戸水などを使っていたのですが、その後急速に普及して、現在はほぼ一〇〇%です。水道が普及すれば逆に汚濁物が増えるわけで、その汚濁物をどうにかしたいということで、今度は下水道の普及が追いかけていくわけです(図3)。

 現在の琵琶湖周辺の水利用のしくみを言いますと、下水道の最終処理を琵琶湖に流し、上水道の水源も川だけでは足らないので琵琶湖からくみ上げ、周辺の水道の源水の八割を琵琶湖でまかなっています。このような大きな循環になっています(図4)。

 これはある意味でたいへん効率的な循環構造ではあります。しかし、その結果どうなるかと言うと、大量生産と、そのための水資源開発、大量消費、そして大量廃棄です。人と水の関わりからかけ離れた構図ができていきます。日本ほどきれいな水を蛇口から出すしくみはないのに、若い人は水道の水をほとんど飲みません。蛇口から出る水は一トン百円です。ペットボトルの水はだいたい一リットル百円です。わざわざヨーロッパアルプスから水を運んでこなくても水道の水は十分飲めるのに、高いお金を出して買うのです。このように、人と水との関わりの記憶は伝えられず、忘れられようとしています。

 

 見えなくなり、関わらなくなると、判断を専門家や行政に任せきりにしてしまう、受け身の住民が増えてきます。行政は役割を果たせば果たすほど、「安心してください。洪水の危険性などは私たちがダムを造って、堤防を造って全部管理しますから」と言います。そして、そう言えば言うほど人びとは安心し、お任せになるという「お互い様」の構造があります。そして水辺はどうなるかというと、忘れ去られ、ゴミが捨てられ、人びとが関心を持たない場所となります。

 記憶に新しいところでは新潟の小千谷市で大きな災害がありました。その被災者の調査をした私の友人に聞いたところでは、水が来て家がぷかぷか浮かんでも、その水がどこから来たのか想像できない人がたくさんいたそうです。すぐ近くに川があることを知らない人が大勢いた。同じように、もし大阪で浸水被害が起こったら、その水が淀川から来たと思わない人がたくさんいるのではないだろうか。そのくらい、いまは水が見えなくなっている。関わらなくなっているのです。このことが、私たちが住民主体で身近な水の記憶を呼び起こして、記録しようという呼びかけをした理由です。

 
日本の河川行政の変遷

 このような背景とともに日本の河川政策を見ていきますと、少々残念な思いがします。「そんなに一方的に批判をするな」というお叱りをいただくかもしれませんが、とりあえずここでは長い時間軸の中で物事を考えてみたいわけです。いろいろ例を挙げてお話してきましたが、この国の河川行政のあり方を、時代を追って整理してみましょう。

 第一期は江戸時代から明治時代中期まで。私はここを「近い水」共生期と呼んでいまして、人と水の関わりが深い時代です。興味深いことに、水害は多いけれども水害の死者は意外に少ないです。昭和二十年代まで、全国で水害の死者数は千人以下でした。そして、初めて河川法が制定されたのがこの時期の明治二十九年です。

 第二期は昭和三十年代まで。この時期に、いわゆる「遠い水」が登場してきます。日本の水害は昭和二十年代に多発しており、これが「堤防閉じ込め型」の治水につながった側面もあります。それは社会の要望でもあったわけです。昭和三十九年には河川法が改正されています。

 第三期はその後から平成にかけての時期で、制御論がほぼ完成して、人びとの中に「遠い水」が浸透しました。

 そして、このようなことではいけないと、行きすぎた「遠い水」への反省が出はじめているのが現在、すなわち第四期であると私は考えています。「共感の時代」です。平成九年の河川法の改正では、どうにかして近い水を取り戻そうと、利水と治水にプラスして、「環境保全」と「住民意見の反映」という項目が入りました。これは政策的に見て、大変重要な転換期と私は考えています。

 この四つの区分についてそれぞれ具体的に見てみたいと思います。

 まず「近い水」共生期です。田んぼの水は慣行水利権ということで引きこみ、魚も自分たちの漁業権でとりました。水を使い、魚をとり、作物を作り、いろいろと水の恩恵を受けますので、代わりに水害への取り組みも自分たちでやりました。私の知人の言葉を借りますと、水の「ええとこ取りはできない」ということです。ですから、多くの水利組合が治水組合と表裏一体でした。

 ちなみに、このあたりですと、神崎川と安威川の流域の神安土地改良区というところに大変な水争いの記録があります。水を取り合うだけではなくて、水を流す争いです。上流、下流、一つずつの村が輪中で囲われていて、堤防を「繩手」と呼んでおりました。輪中で囲っておりますから、大雨が入ったときは下のほうを切って水を逃がしたいわけです。ところがそれをやられると下流の村は自分のところが水害になるので困る。そこで争いになるのです。

 ともあれ、この時期の人びとは洪水が起きたらどうにか自警水防組織で対処しました。こうしたことが、先ほど少し言いました「死者が少なかった」ということにつながる。おおむねどこの村でもお寺は高い位置にあり、大雨が降りはじめると、お年寄りと子供はまずお寺に避難しました。それから個人の家でも、淀川ですと「段倉」という水屋があり、大雨が降って水が来てもモノを守ることができました。一種の自衛の水防組織が作られていたわけです。

 水を利用しながら、同時に水害の対策も自分たちで立てました。水を引くこと、使うこと、水の場を利用すること、魚をとること、洪水に対処すること、それはすべて地域社会が母体になっていたわけです。つまり、「総体としての近い水」があったのです。

 この後の第二期に「遠い水」が出現してきます。明治二十九年の河川法のねらいは、「治水」と「電力需要」でした。また、遠い水の出現は、明治期以降、地租改正によってそれまで村、共同体の持ち物であった土地が、個人の所有になったことともたいへん関係しています。

 じつは、水害の調査をいろいろしてみると、水害常習地ほど大地主が多いようです。江戸時代には土地はある意味で村落の共有財産でしたが、明治期以降は紙切れ一つで所有を主張できるようになった。資本主義的な近代化を実現するためには、たしかにこうした地権制度、私有制度が重要だったわけですが、たとえば高槻、摂津などでは大阪の商人がたくさんの土地を持っておりまして、高槻のSさんという地主は自分の家から千里のあたりまで、自分の土地以外のところは通らずに行けたそうです。このように、かつての村落の共同意識が崩壊したことと水害の増加はかなり関係しているのです。

 そして、これらの地主階級から水害を防ぎたいという要求が出されてきます。その他にも、近代化への過渡期ですから工場を造らなければいけない、住宅も造らなければいけないといった土地利用のニーズもあって、では堤防を強くしていこうという流れになっていきます。もちろん、電力需要の問題もありました。つまり川や水に対して、さまざまな要求が出てきたのがこの時代です。そこで、「総体としての近い水」が「機能別の遠い水」になっていくのです。電力需要、あるいは舟運、農業など、用途や目的別に水が分かれていくということです。

 機能別に分かれるときの一つの社会的合意を作るしくみが、数量を計算するという方式です。つまり利水のために、電力のために、これだけの水をあなたのところにあげようと水の量を量ることです。明治三十年ごろの河川法なり、当時のさまざまな資料なりに出てきますが、当時の単位は一尺立方で、一尺はほぼ三十センチです。現在はトンで計測しますが、三×三× 三の二十七尺立方がほぼ一トンに相当します。水を量で考えて、電力用にはいくら、都市活動にはいくら、農業用にはいくらと機能別に分類されていきます。

 併せて、「堤防閉じこめ型」の治水方式が出てきます。これはある意味での合理性も持っていて、とくに水系というものは上流から下流まで一貫して管理しなければいけないとして、「水系一貫主義」の考え方が導入されます。

 昭和十年代に「河水統制事業」という事業が起こりますが、ダムを造れば水をためて水道水にも使える。電力にも使える。それから水をためることによって下流の洪水も防げるという多目的ダムの発想が出てきます。原型は一九三五年(昭和十年)にできたアメリカのTVAで、その影響を受けています。しかし、その後の戦争によって事業進行は遅れて、戦後、先にも触れたように昭和二十年代に大変な水害が起きます。その理由については、戦争中のさまざまな荒廃の影響、また圧倒的に大雨がたくさん降ったという自然の要因などが挙げられると思います。

 この後、戦後の復興に向けて昭和二十五年に「全国総合開発法」ができますが、それ以降、「治水はすべて公費」という基本ができ上がってきます。先ほど申しましたように、その昔は堤防を直すなどの治水費は地元の人も出しており、一種の受益者負担の考え方があったのですが、以後、国家の政策として治水はすべて公費ということに変わっていくのです。

 そして、この次に第三期、ご存じのように経済高度成長に向けて一丸となって進んでいくなかで、日本全土の総合開発が行われていきます。

 先ほど琵琶湖総合開発のことを少し述べましたが、それもこの時期のことで、治水プラス利水の面が強化され、多目的ダムがいろいろ実現されました。これはある意味の豊かさを人びとに与え、大量生産、大量消費、大量廃棄の生活様式が人びとの間に根づき、大量の水を使うことが「文化的」な生活の象徴となっていきます。同時に、多目的ダムの水を量るという発想から、許可水利権による水量把握、きつい言い方ですが、「水配分の中央支配」、つまり建設省(国土交通省)なりその代理機関として委任事務を受けた県などの行政が水量の支配をしていくようになるわけです。

 ですから、いまの私たちは川の水も自由に取れません。法律違反です。魚も自由にとれません。これは漁業権違反です。水の配分についてこのような形になったのはそれほど古い歴史ではなく、昭和三十年代以降のことなのです。これを裏返せばもともと水をめぐって多くの種類の利害対立があったことを意味しているわけで、その点では、さまざまな利害対立を調整し、制御するしくみを行政が作り出したともいえるのです。

 これらをまとめてみますと、図6のようになります。川の上流に多目的ダムを造り、利水、治水に資し、それから川に堤防を築いて水を閉じこめ、その水は逆水灌漑します。この際、ここから水があふれ出るということはほとんど前提になっていませんでした。つまり、ここが重要なのですが、前提になっていないというだけで、一〇〇%安心というわけではなかったのです。

 たとえば百年確率というのは、「百年に一度は大雨が降る」ことを暗に示しています。ところが、それが住民、あるいは私たちに知らされるとき、「百年に一度ですから、安心です」という意味になってしまう。万一のときに超過してあふれることがあるのだという情報が、なかなか伝わらないわけです。

 ここを皆さんに考えてほしいのです。住民も行政も研究者も立場を超えて、そのような危険情報がなぜ伝わりにくいのか、伝えにくいのかということを考えてほしいのです。

 行政は、どれだけ水をためてどれだけ流せば安全度が高まるか一生懸命計算して、ダム計画を作ります。たとえば安曇川という川があります。上流にダムを二つ造ったら、これだけの水をカットできるから安心です、川の幅を広げて、河床を掘り下げれば河積(川の体積)が減りますから安心です。そういうことで計画を立てるのですが、予測どおりにいかないまま、水害が起きていくわけです。

 ですから、そのあたりがいまの問題だろうと思います。つまり、近代的知識なるものを応用するのはよいのですが、応用の仕方だろうと思います。万一のときを考えられない状態の中で、もともと「水を遊ばせながら流域で社会的に受け止める」という共感的思想であったものを、「ともかく川道に水を閉じ込める」という河道主義に変更しました。それで、本当は安心ではないのだけれど、住民は安心してしまいました。お金も払わなくていい、何も関心を持たなくていい、すべて行政にお任せです。関心を持たなくなりました。そして、水害の履歴や記憶などは、死者の数や浸水面積などといった平均値だけで記録されるようになりました。

 
二・五人称の情報回路

 これからが本題です。すなわち、水を封じ込める行き過ぎた「制御論」から、水とともに生きる「共感論」に少し戻ろうという現在の第四期です。大きな被害が出たのなら、その被害の構造を現場に即して見ることによって、これからどうしたらいいかを考えよう、そうすれば社会的に何かもっと別の方法が見えるのではないのかと私たちは思っているわけです。

 そのための手法が、今日述べてきた水害エスノグラフィーです。人びとの暮らしぶりや状態、自然との関わりなどを、丸のまま記録します。どんな場所で(属地的)、どんな人が(属人的)、どんな経験をしてきたのか。その経験は、どう記憶として語り継がれるのか。記録にしたものをどう問題意識としてすくい上げ、どのように次の世代に伝えるのかということです。

 この背景には、いわゆる行政的な記録への反省があります。行政の記録は、どうしても数量だけ、ただ人数だけ、あるいは面積だけといったものになりがちです。現在の個人情報の問題もそうですが、ある意味で、私たちの近代的知識は、さまざまなものを三人称化します。哲学者の唐木順三さんの言葉ですが、「近代はすべてを三人称化する」。つまり、「私」「あなた」は私的な関係であり、公平ではない。だが「彼ら」という三人称化された世界なら、公平性と平等性が保たれるだろうという感覚です。これももちろん大事です。たとえば「嘉田由紀子さんは行政に対して口が悪いから、税金をたくさん納めてください」と言われるのは困ります。税金の納税などは、やはり三人称で扱ってもらわなければいけない。しかし、そのようななかで失われてしまったものがあるのではないかと思うのです。最近、評論家の柳田邦男さんが、「二・五人称の情報回路を」と言っておられたのですが、それだろうと思います。

 たとえば昨年、豊岡の洪水で堤防が切れて警告が出されたのですが、住民には伝わりませんでした。伝える人と伝えられる人の間に「私」と「あなた」の関係ができていなかったら、「危ない」という情報は頭の上を通り過ぎてしまうわけです。つまり三人称でいく限り、いくら行政がハザードマップを作っても、勧告を出しても、人には届きません。ここのところが重要なのです。

 ですから、私どもはエスノグラフィーをやるのです。経験と記憶のリアリティをえぐり出したいのです。ただし、私自身は正直言って気が重いです。こんなつらい聞き取りは嫌だと思うことは随分あります。洪水で子供が亡くなったなど大変な状況を知らせてもらうことになります。けれど、心を取り直してやっています。それは、聞き取りをさせていただいた相手の方に励まされることが多いからです。平均化されていない属地的・属人的な情報が得られるからです。

 言葉だけでは伝わりにくいので、写真も重要です。先ほど第二室戸台風のときの中之島大ビルの写真をお見せしましたが、あれを見れば事実として否定しようがありません。「こんなに水が来たのだ」「人びとが避難したのだ」。言葉で説明するより、写真を見るほうがリアリティがあります。そのような古い写真をたくさん集め、うまくデータベースの中に入れて、聞き取りの現場で使えるようにします。聞き取りのお話に応じてどんどん古い写真が出せるようなシステムを、いま開発しています。それを「写真資料提示型インタビュー」として、地域の人、とくに子供たちに伝えるワークショップを開催しています。

 こうした取り組みをする背景には、「いったい当事者は誰なのか」ということを地域の人びとに示し、考えてもらいたいという思いもあります。水害が増大し、いざ同時多発的にあちこちで災害が起きたら、私たち一人ずつが受け止めるしかないのです。当事者は私たちなのです。二〇〇〇年九月の東海豪雨、それから台風が相次いだ二〇〇四年には、死者数は二百名を超えてしまいました。平成に入って最大です。

 併せて、いま水防意識が弱体化していることが怖いと思っています。水害履歴地を一か所ずつ属地的に調査してみますと、新興住宅地になっていたりします。昭和二十八年の十三号台風は近畿圏ではいちばん大きな水害だったのですが、その浸水地区はいま住宅密集地になっています。もっと慄然とするのは、そこに住む人たちに「ここは洪水になったことがあるのですが、聞いたことがありますか」と言うと、「そんなん全然知らない」と言うことです。これがたいへんに怖い。皆さん、お帰りになられたら、ご自分の家が昭和二十八年のときどうなったかということを調べてみてください。

 それから、先ほど申し上げたように、行政が浸水情報を出しても住民が無関心というのも問題です。このほど枚方市が浸水マップを全戸に配布しました。行政のほうは外に出すまでが大変です。不動産業者さんから怒られないだろうか、あるいは住民から問い合わせが殺到しないだろうか。議論に議論を重ねた末に公表します。ところが、枚方市の担当の方に伺ったら、「問い合わせは一件もありませんでした。私たちの心配は杞憂でした」とのことでした。それほど無関心です。そして、そのことが余計に恐ろしいです。

 
リスク・コミュニケーション
 

 では、私どもが試みているワークショップの中から、いくつか事例を紹介します。ワークショップでは地域の住民の方、また小学校などとも協力して子供たちにも参加してもらっています。水害の体験者に現地を案内してもらい、みずからの経験を語ってもらい、皆で聞きます。一緒に避難地図を作ったりもします(写真4)。人びとの暮らしの記憶を世代を超えて伝える。みんなで問題を共有して考えます。洪水はゼロにはできません。でも、それにどう対処するかということです。

 この写真は安曇川町というところで、昭和二十八年の十三号台風の際、たいへんな被害を受けました(写真5)。堤防が切れて十四名亡くなりました。堤防が切れたところは現在、新興住宅地になっています。自然豊かな川に近いリバーサイド・ニュータウンとのことです。ここに住んでいる人はかつての水害のことなど知らないと言います。

 そのときの被災経験を、決壊場所で白井さんという方が話してくださいました。白井さんの家は水で流され、屋根のかまちだけが下流に引っかかって残ったといいます。家族も全員、一晩流されて、一歳半のお嬢さんが亡くなりました。遺体は下流の橋のたもとで二週間後に見つかったのですが、やはり二週間後に、タンス一つと、亡くなったお嬢さんの写真と掛け軸が琵琶湖の対岸の近江八幡から出てきたそうです。これはたいへんすごい話です。白井さんは近江八幡まで行き、亡くなった娘さんの写真に出会えた。いまも仏壇にこの写真を置いていて、毎朝手を合わせるということです。

 なぜ川があふれたかというと、昭和八年(一九三三)に安曇川大橋が完成したのですが、古い橋のときの低い堤防のままで放置されていた。また戦争中ですから砂利をさらう人がいなくて河床が上がっていた。それから、戦争中の金属供出で半鐘がなくなっていたので、村民に連絡できなかった。加えて、戦後の混乱の中で上流の森林が破壊されていた。白井さんは「水害はこれからも来る、ダムはほしいが、相手は自然のことゆえ、完全に安全とはいえない」と言っておられます。

 もう一つは野洲川というところです。この川は氾濫ののちに新しく河道がつけ替られたのですが、そのつけ替えのときの新聞記事は「水害完封」という言い方です(写真6、7)。完全に安心しきっています。じつは、野洲川は新しい河道を造っても百年に一度くらいはあふれる恐れがあるというのが当時の建設省の見解なのですが、新聞には「洪水の心配去る」と書いてあります。ここで聞き取りをした山本さんという方は、最初にお目にかかったときは「新しい川ができたから安心や」とおっしゃっていたのですが、二〇〇五年六月に琵琶湖河川事務所が浸水地図を出したところ、やはり「安心しきれない」とのことでした。

 

 このようなことは「リスク・コミュニケーション」という分野です。リスクを自分たちで防いでいくためには、共感しあい、皆で情報を共有することが大事だろうと思っています。

 いわゆる「制御論」は、ある部分で必要です。ダムも堤防も必要でしょう。が、それにこだわるだけではなく、やはり「共感論」が同時に必要だろうと思います。川に近づき、実感し、根拠の薄い安心感が蔓延するのを防ぐ。「洪水」を「災害」にしないためのさまざまなしくみを考えて、いま私どもは第四期の取り組みをしているわけです。

 この写真はチェコの洪水です(写真8)。私たちは現場を見にいったのですが、チェコの人たちは、「洪水は受け止めるしかない、堤防は造らない、自分たちは逃げるだけだ」というようなことを言っておりました。

 
 

 こちらの写真はパリの大洪水で、一九一〇年です(写真9)。川べりに憩う人たちにインタビューをして川との関わりをいろいろ聞いたのですが、「洪水が来ても川ぞいに住むか」という質問の答えが面白かったです。四十二人のうち三十人が住みつづけると答えました。理由は「景色や場所がいい」「頻度が低い」「洪水調節されている」「洪水は楽しい」「人間には恐怖が必要」。「引っ越す」という人は四十二名中十二名でした。

 そして、最後がカンボジアです。ご存じのように、カンボジアのトンレサップ湖では、最初から八メートルほど水位が上がるのを想定して高床式の住居になっています(写真10)。船の上の暮らしと組み合わせた洪水織り込み型の暮らしです。

 私が水害エスノグラフィーの調査から教わったことは、個人的な一人称の記憶と経験を知れば知るほど、いわゆる三人称的な「基本高水」では災害は防げないだろうということです。水量主義に基づく大規模公共事業は本当に必要なのだろうか。逆に、それによって安心感をばらまいたら、かえって危険なのではないだろうか。水や自然との関わりの内実が薄められてしまうからです。

 人と自然の関係性が空洞化する現代社会にあって、ある意味で水害や災害は、社会的にも心理的にもそこに「おのずとある」もの、実在するものとして考えたらどうでしょうか。それが人文学として、これから災害というものを考える一つの方向であってくれたらと思っております。