パネルディスカッション(2/4) 灰色の理論と経験の海

 
 
国際日本文化研究センター教授
猪木 武徳 *
 
鷲田

 それでは最初に、猪木武徳・国際日本文化研究センター教授をご紹介します。お話が始まるとすぐにおわかりになると思いますが、非常に懐の深い、ほわっとした当たりのいい先生です。が、お仕事のほうは、非常にシビアな研究をいろいろされています。労働経済学から出発されましたが、経済思想、日本経済論、とくに人材開発の問題や、最近は官僚制の国際比較等にも取り組んでおられます。

 本日、パネリストとしてお迎えしましたのは、経済学の中でも、社会の現場に非常に近いところで発生している問題に取り組んでこられたからです。また、私も新聞の読書アンケートでベスト3の一つに挙げたのですが、『文芸にあらわれた日本の近代』という著書を2004年に出されました。近代の日本文学の中に、経済や社会史についての思想の独特な現れ方を読み取るという非常に魅力的なご本です。

 「灰色の理論と経験の海」という題で、「歩く人文学」についてのご提言をいただきたいと思います。

 
 
 
歩く経済学
猪木

 私の研究分野は経済学ですが、経済学といっても分野は非常に広うございます。本日のテーマは人文学(Humanities and the Social Sciences)ですから、私は少しはずれる感じがするのですが、企業をはじめ、公共部門、学校など、いろいろなところで人びとの職業生活、勤労生活に関わる分野の問題に関心を持って勉強してきて、経済学の中でも人を具体的に取り扱っておりますので、その点で人文学の仲間に入れていただけるのではないかと思っています。

 経済学というのはご存じのように、Worldly philosophy といわれることがあります。World というのは世界という意味です。世俗の哲学とか、この世の哲学というように呼ばれることがあります。そういう意味ではPhilosophy、Philosopher の一翼、一端であると私は解釈しています。

 私がこれまでに考えてきたことを少し具体的に言いますと、人びとの職業や勤労に関わる経済的な問題を考える、あるいはそれらの問題を経済的に考えるということです。たとえば人はどのような教育を受けて、どのような職業を選択し、どのような組織の中で働くか。そして働く場合には、どのようにして選抜されて、どのような仕事に就くのか。そして、その仕事はどのように評価されて、それに対してどのような報酬が支払われるのか。この場合の報酬は、狭い意味での賃金や給与といったお金の面だけではなく、どういうポストについて仕事をするかというような、昇進等の問題も含みます。ですから、教育訓練や、選抜と労働力の配分、どういう人がどういった職業に就くのか、そして評価と報酬のシステムなどを国ごとに比較するようなことを、主にやってきました。

 たとえば非常に単純化して言いますと、一生懸命働く人と一生懸命働かない人を同じように処遇するようなシステムを持った社会と、逆に、今日の働きぶりはどうだったかというように非常に短期的に人を評価していくようなシステムを持った社会があるとします。その二つは、長期的に見ると国際的な競争力や生産性においてどういう差を生み出していくか、といった問題意識になるでしょうか。

 先ほど鷲田さんから紹介していただきましたが、私が最初に行ったのはフランス人との日仏の比較の共同研究で、次にタイとマレーシアにかなり長期間滞在して聞き取り調査をやりました。そのほか、1~2か月ぐらい、オーストラリアやアメリカなどいくつかの国で、企業でのインタビューを重ねてきました。

 そのようなわけで、私にとっては理論も大事ですが、観察も重要です。簡単な仮説のようなものを設定して答えていただいて、その過程で全体の構造を探っていく。初めから強い結論を持って聞くのではなくて、試行錯誤的に聞く。ですからアンケートとは違います。アンケートは問いがはっきりしていますが、ダイアローグ(対話)をする中で事実を知るということは非常に難しい。ほとんど不可能に近いことだと思いますが、実態に近づければということで仕事をしてきました。

 今日は「歩く」、あるいは「走る」、外を歩くというのがメインテーマになっていますので、まず、私の経験から、ぜひ皆さんに聞いていただきたいと思うことを、3点ほどお話したいと思います。

 
 
 
特殊論を見直す
猪木

 私の専門は経済学なので、外の世界で実際に何が起こっているかということを見なければなりません。時代とともにシステムも変わります。ですから、新しい情報を取り入れていくことが不可欠なのですが、いかんせんわれわれは、いかなる職業もそうですが、自分中心に物事を考えたり見たりします。それは、目は自分の顔の上にあり、自分中心に物事を見るというのは人間の構造上仕方がないわけです。ですから、私はこう思うとか、私は物事をこう見たというように、必ず考えます。私はこんなに大事なことをやっているのだけれども、私の仕事に皆関心を持ってくれないとか、とにかく人間というのは基本的に自己中心的にものを見ます。

 社会科学においても経済学においても同じなのですが、日本の問題を考えるとき、われわれはどうしても自国を中心に考えてしまいます。そこで、何か一つ傾向なり法則的なものが目につくと、これは日本に特殊なものだとか、日本は世界からちょっとずれているのではないかというように、特殊論に走りがちです。ちょっと思い起こしますと、日本が経済的にうまくいっている時代には、特殊なものが日本社会、日本経済にうまく働いたと考えました。日本経済がうまくいかなくなると、特殊なものが社会なり経済なりにネガティブな作用を及ぼしたというように結論づけてしまいます。

 その一つの例として、皆さんよくご存じの「終身雇用」という言葉があります。この言葉を日本の雇用慣行として最初に持ち出した方は、アメリカ人の経営学者のアベグレンさんです。ライフタイム・コミットメントとか、パーマネント・エンプロイメントという言葉を使って、日本の雇用慣行に関して、三つの特殊なものの一つとして指摘されました。傾向的に日本が少し強いことは確かではあるのですが、日本が終身雇用制で、外国はそうではないというような形で広がっていったのです。いかなる学説も簡略化され俗流化されるわけです。

 ところが、よく観察する研究者たちが、外国の企業のデータをいろいろ集めてみて、どうもそうともいえないのではないかということを言い出しました。日本人というのは、外国人の学者に指摘されると、すぐ反省して「そうかな」と思ってしまうところが強いと思います。そのような指摘があった後、実際に観察してみて、やはりそうでもないようだというので、本格的な国際比較のサーベイが行われました。日本の統計データは非常に質がよくて― 統計データの精粗、よしあしは国によって違うのですが― 、1980年代になって、やっと勤続年数等の国際比較が行われました。これは、自分の国が特別だという思い込みに対して、実際にデータを突き合わせてきちんと比較しようとした初めての試みです。きちんと比較したうえで議論をしたほうがいいのではないかという立場に立つ研究者が、当時はマイノリティだったのです。

 こうして日本と欧米諸国を比較しておおむねわかったことは、ブルーカラー、ホワイトカラーの企業内での定着度、勤続年数が、日本とアメリカが対極をなしていたということです。

 日本は、「外国」というと、地理的には遠いけれども大事な友邦でいろいろ関係の深いアメリカの例をまず考えます。そのアメリカと比較すると、たしかに日本の数字は非常に違います。アメリカをスタンダードだとすると、日本は非常に不思議な国になってしまいます。

 OECDがヨーロッパ、オセアニア等の国々を含めたデータを作成したのが、80年代の後半です。その結果わかったことは、たしかに日本とアメリカはポーラーケース(対極)でした。アメリカの近くに分布していたのはカナダ、オーストラリア、イギリス、オランダといった国々です。それらとの比較においては日本は孤立しているのです。ところが、フランス、ドイツという大陸ヨーロッパのわりあい産業化の長い歴史を持った国の労働者の定着度は、日本に非常に近いこともわかってきました。これ以上深くは入りませんが、二つの事例だけの比較によって、日本は自分たちはおかしいのではないかとすぐに反省してしまうのですが、アメリカと日本という二点の観測だけではなく、観測点数をもう少し広げていくと、全体的な見取り図のようなものがわかる。

 そのほか、日本の賃金は年功的かどうか、日本だけが年功的か、日本の労働組合だけが企業別なのかというような議論に関しても、この20年くらいの間にたいへん研究の蓄積ができました。30年以上前の通説は、かなり書き換えられています。その点に入る時間はないので省略しますが、以上が第1点です。

 
 
 
観察によって理論を修正する
猪木

 第2点は、まさに今日のテーマの「歩く」ことと関係しています。普通、物事を人に説明するとき、一つのケースを使ってこのように面白い話がありますよとエピソードとして話すのではなくて、学問的な体系化を少し意識して話す場合は、まずいろいろな物事を観察して、その結果どうやら一般にはこのように言えるのではないかと「理論化」して説明するというプロセスがあると思います。

 日本の経済学の場合、江戸時代にも立派な経済学的な書物、研究があるにはあるのですが、基本的に、いまわれわれが言うところの経済学は明治以降に輸入されたものです。ですから、日本の経済学は、まことに残念ながら九割方は輸入学問です。基礎的な概念自体も、主にアングロサクソン系統の学者が掘り起こした言葉なり概念を使ってモデル化しています。輸入された理論的な構造、形を使って、たとえば日本であれば日本経済に起こっている現象を説明するスタイルがほとんどです。経済学の後発国としては、残念ながら、そういう道をたどらざるをえませんでした。

 しかし、経済学は高等数学のように、どこの国に行っても説明をすれば理解してもらえるようなものではないところがあります。つまり、経済というのは生きた人間が活動して現出するものですから、イギリス人、アメリカ人の経済学者が考えた合理的な説明とはちょっとずれる。先ほどの鷲田さんの話では、最短距離でどこから目的地に到達しようというのは一種の合理性です。しかし、必ずしもそのような行動をとらないこともある。ですから、この10年ぐらいでしょうか、厳密にはもっと前からそのような分野で研究をしている人もいますが、聞き取りなり実験を繰り返しながら、いろいろな仮定を修正していこうという動きが起こっています。

 だいたい理論というのは、もしこれこれの条件が成立していればこのような帰結が起こりますという構造を持っています。そのような仮定なり条件が満たされているかどうかはテストをしないとわからないわけです。自然科学や工学の場合はいろいろ要因を制御できますが、経済学では条件をコントロールできません。ですから、そうした意味でも、人間の合理性という前提を考え直そうという動きが出てきています。これは新しい動きであり、やはりもう一度観察をし直そうという一種の反省のうえに出てきた方法です。

 いい例かどうかわかりませんが、たとえば、あした早く起きたいという一つの目的を持って、人間が行動するとします。そのときに目覚まし時計をかける。寝る前の私というのは、あしたの朝、早く起きたい。したがって、目覚まし時計を七時にかける。ところが、翌日、目覚まし時計が鳴ったときの自分というのは、ちょっと違うわけです。もっと眠りたいという自分です。ですから、耳元に置いておいた目覚まし時計をすぐに止めるでしょう。もちろん、止めない意志の強い人もいますけれども。ですから、今日の私と明日の朝の私というのは、じつはちょっと違うわけです。

 では、その場合の合理的な解決は何かというと、たとえば、目覚まし時計を自分の寝ている所から離れた所に置く。隣の部屋に置いてしまったらだめです。自分の寝ている所からちょっとだけ離れた所に置く。異なる二つの自分に対して、ベストの解が与えられるような行動をとる。

 ですから、改めて観察をし直して理論化する。その理論をいままでは外から持ち込んで、日本の場合はどうだろうかというような議論をしてきたわけですが、それだけではなくて、もう少し人間行動を広く見てみようと。その場合にいろいろ起こっている経済現象の説明のつかない部分を、もう一度考え直せるのではないかというようになってきたということです。観察の理論化と、理論に現実を当てはめるプロセスをもう一度やり直そう、ということで外を歩く。実際の経済活動の現場で、人びとがどのような決断をしているかを、探っていこうというわけです。

 聞き取り調査などを外国の企業などに依頼するときはなかなか大変で、たしかに、あまりよく知らない国の研究者から企業を訪れたいという手紙が来たら、どうしようかとみな迷われると思います。ですから何とか自己紹介の手紙を書いて、名刺代わりに自分の論文を差し挟んで、「いついつまでここに滞在しているので、一度会えないか」というようなことをやります。人類学の方はもっと長いフィールドワークをなさるでしょうが、われわれの分野の場合でも、そういう形で外国との比較をし、外国の生産現場を観察し、あるいはインタビューをすることの重要性が、次第に認められるようになってきました。

 
 
 
エピソードを概念ですくい上げる
猪木

 では、最後の第3点です。外を歩く、観察するということは、非常に大事なことだと思います。観察したり人から話を聞いたりすると、自分の経験していない世界を教えてもらえますから、たいへん面白いです。

 しかし、たくさんの面白い事実を手の中にたくさん持つことが重要なのではなく、たくさんのエピソードの洪水を自分なりに方向づけする、自分なりに整理し直して、新しい概念ですくい取ることが重要なのです。われわれは物事を目で見ているように思えますが、じつはほとんどの場合、概念で見ています。たとえば街を自動車が走っているのを見る。しかし、それは自動車そのものではなく、ほとんどの場合自動車というコンセプト、あるいは言語で見ているわけです。

 ですから、物を見る、あるいは考えるというのは、どういう概念で見るかというのが決定的に重要になるわけです。物事をどのように見るか、共通の言葉で論じ合っていく作業を抜きにしてはいけない。たくさんの事実を集めることは非常に面白くて楽しいのですが、共有できる概念を抜きにしてしまうと、それを一つの学術的な知識として高めていくことになかなか到達しないという一種の落とし穴があるわけです。事実ばかりを集めて、面白いものが見つかり、新しい資料が出てくると非常に興奮して、もともと自分が何を知ろうとしていたかということを忘れてしまいます。ですから、事実を集めることは大事ですが、もともと何が出発点で、自分が何をしようとしていたのかを時々振り返ってみないといけない。いかなる分野もそうだと思いますが、とくに私どもがやっているような研究においては、ついつい新しい情報なり事実にたいへんな面白味を感じて、自分自身を見失ってしまう恐れがあるのです。

 ですから、データなり事実を集めるときには、仮説のようなものを常に頭に入れながら行う。歩くときもぶらぶら歩くのは楽しいけれども、自分が何を知りたいかをいつも意識しておかないと、永遠にぶらぶら歩きを続けることになりかねない。そのように私はいつも肝に銘じております。以上で発表を終わらせていただきます。

 
鷲田
 ありがとうございました。