No.019 - 国際発信するということ

国際発信するということ

人間文化研究機構 理事  佐藤 洋一郎

 先日東京のある大学で「クジラ問題を考える」と題するシンポジウムが開かれました。「おくじらさま・2つの正義の物語」を制作した佐々木芽生監督も登壇し「正義の向こうの正義」という話をしました(http://okujirasama.com/)。クジラ食とは何かという問題を越えて、ある文化が考える正義に相対するのは「邪悪」ではなくもう一つの正義なのではないかという主張でした。人文系の研究機関における成果の国際発信にもおなじ問題が横たわっているのではないか― そう思われてこの稿を草することにしたのです。

 わたしは遺伝学者です。わかいころは研究の成果を英語の論文にするのをごく自然のことと受け止めていました。ただ、わたしの関心はもっぱら≪イネという人が作った植物≫がいつどこにどのように伝わったかにありましたから、常に人の影がついてまわります。その意味では人文学の研究対象です。投稿した原稿は一度で通ることはまずありませんでした。たいがいは審査員から何らかの指摘を受け、それに基づいて書き直しし認められると掲載という運びですが、何回かに1回は書き直してもだめで「不掲載」の判定が下ります。不掲載の判定が下されると腹も立つし、その原稿はいったんお蔵に入れて封印してしまうこともしばしばでした。「名もない若造が何を言うか」といった、日本でもありがちな理不尽な理由での却下もあったことでしょう。しかし何とも説明困難な理由もあったように感じます。トレーニングを受けたネイティヴにみてもらった原稿を投稿してもなお「readableでない」とか「poorly written」などの理由で却下されるのです。いったい、なぜ? 

 わたしたちがものを考えるとき、自分の言語を使ってものを考えているといいます。だとすればわたしたちが組み立てた理屈や結論に至る筋道は、それを考えた時の言語によって微妙に異なる可能性があるということです。結論も、微妙なところでは変わってくるかもしれません。日本語で考え、日本語で書いた論文には日本語固有のなにかを含んでいるはずです。

「日本語固有の何か」があるとして、それでも人文系の研究成果を英語で発信しなければならないのでしょうか。わたしのこたえはイエスです。先のクジラ論争で話題になった正義の向こうの正義にしても、それ自体を認めることすらしない人びともいます。誤解を恐れずいうなら、一神教の教義はまさにそれです。異教を邪教としか見ない相手にも、もうひとつの正義の存在、あるいは道筋の存在を言わなければならない― それが、人文系の学問の宿命なのではないでしょうか。そしてそれには、嫌でも応でも英語という道具を使うしかないのではないかと思うわけです。英語独自の論理にこちらの論理をあわせる必要はありません。違う見解、違う思想、違うやり方に相対したときに、それを邪悪なもの、または受け入れがたいものと思わせるのではなく、もう一つの正義として受け止めさせることが必要なのではないかといいたいのです。人文学の世界における英語による発信の必要性はここにあるのだとおもいます。むろん英語ばかりが発信の手段ではないし、また世界各地でおこなったフィールド研究の成果を発信する一番大切な対象の一つが調査対象となった人びとです。その意味では、手段として使う言語は、日本語、英語のほか、調査の対象地とその社会が用いる言語を考えるべきなのでしょう。

 わたしたちが所属するのは大学共同利用機関です。一つの大学ではできないような大掛かりな共同研究を組織することがわたしたちには求められています。国際連携、発信の面でも、同じことが求められているように思います。とくに日本文化にかかわる研究分野での、多言語での発信― 国内の発信ではそれほど考える必要もなかった日本語固有の思考の道筋や論理を異言語の使い手に伝えること― がますます重要になってゆくように思われるのですが、いかがでしょうか。