No.061 - 「近世江戸は災害都市だった! 連続複合災害について考える」(大手町アカデミア✕人間文化研究機構一般講演会)開催報告

「近世江戸は災害都市だった! 連続複合災害について考える」(大手町アカデミア✕人間文化研究機構一般講演会)開催報告

 

今冬(2020-2021)、大雪に見舞われた多くの地域と比べて、荒れた天気の少なかった東京。実は、江戸時代、東京(江戸)は災害に見舞われることの多かった災害都市であったことをご存じだったでしょうか。災害歴史学を研究している国文学研究資料館教授の渡辺浩一先生によれば、江戸では、火災は1年に2回程度、水害は約3年に一度、感染症は頻回していたそうです。江戸で頻発するこうした災害に対して幕府はどのような対策を打ち出していたのでしょうか。2020年12月16日(水)、大手町アカデミアと人間文化研究機構が共催する一般講演会「近世江戸は災害都市だった! 連続複合災害について考える」(オンライン)において、渡辺先生が当時の社会情勢や災害の規模などを比較しながら、江戸幕府が打ち出したさまざまな災害対策を紐解きました。

1603年から200年近く続いた江戸時代。渡辺先生によれば、その中でも1780年代の天明期と1850年代の安政期は、短い期間の間に災害が集中した連続複合災害の時期と位置付けられるそうです。天明期の連続複合災害は、1783年の浅間山の噴火に始まり、感染症の流行や大火、水害、そして1791年の高潮と、10年弱の間に江戸は数々の災害に見舞われました。一方、安政期の連続複合災害は、1854年から1858年の間に3度の大火、台風、地震、コレラの流行が次々と江戸で起きました。こうした連続複合災害について、天明期と安政期とでは、幕府が打ち出した対策には大きな違いがみられると渡辺先生は説明します。天明期の対応は直接的で民意を無視した強権的なものであった一方で、安政期の対応はそれまでに整備された災害対策を踏襲するにとどまり、新しい施策の議論はなされたものの結果的に実行することができなかったと、渡辺先生は評価しています。

 

1855年の安政大地震後の江戸の様子。地震の後に火災が起こっている様子が見られる。本所天神川堤(江東区横川三丁目付近)より江戸を望んだ様子。右手が上野方面。左側が深川方面。(『安政見聞誌』より、国立公文書館デジタルアーカイブ)

 

たとえば、幕府が天明期に行った飢餓対策として、町会所(まちかいしょ)の設置があります。町会所では、平時にあらかじめお米やお金を備蓄しておきます。そして、災害時の救済措置の一環として、備蓄したお米やお金を被災者に配ります。また、町会所の備蓄品の使用に関わる手続きを簡素化することで、より素早くかつ多くの被災者を救済できる仕組みを整えました。さらに、水害の影響を抑える目的で、隅田川内造成地の撤去や海沿いの町の移転などを積極的に行いました。海沿いの深川洲崎の移転については、反対する声も幕府に寄せられましたが、幕府は黙殺したようです。これらの対応は、のちに寛政改革として知られる改革の一環として幕府が取り組んだものです。他方、安政期には、たとえば、江戸に全国の産物を集荷・販売する産物会所の設置が検討されました。しかし、協議と構想だけにとどまりました。また、軍事訓練施設の維持費を確保するために、幕府が繁華街に有していた土地を町人(利用者)に買い取らせる施策も試みました。しかし、こちらも買取られた土地の数は予定の3分の1にも満たず、結果的には挫折したようです。

 

中央の緑の草原部分が1791年(寛政3年)の高潮によって流された場所。幕府は高潮対策として、この草原部分での人の居住を禁止した。(洲崎弁才天境内全図 安藤広重『江戸名所百景』より、国会図書館デジタルコレクション)

 

このように連続複合災害に対する江戸幕府の対策は、その時代時代によって異なっていました。こうした違いの背景の一つに安政期は諸外国との貿易も始まる時期と重なり、軍事改革も進める必要があったことから、災害対策よりも軍事改革が優先されたことが影響していると渡辺先生は見ています。

このオンライン講演会には、定員100名のところ、300名近くの参加申し込みがあり、イベント開始前から高い関心が寄せられました。またイベント当日は、子どもと一緒に親子で参加した方や歴史に詳しい参加者もおり、幅広い層が渡辺先生とともに江戸時代の複合災害と幕府の災害対策について考えました。当日の講演や質疑応答の様子は人間文化研究機構のYouTubeチャンネルからご覧いただけます。

(文:高祖歩美)

 

人間文化研究機構のYouTubeチャンネルから公開されているオンライン講演会「「近世江戸は災害都市だった! 連続複合災害について考える」(大手町アカデミア✕人間文化研究機構)