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くらしに人文知

荒唐無稽な注釈から広がる想像──中世古今注と学際的知の交差  

Vol.016
2025.05.30
澤崎 賢一
総合地球環境学研究所

イントロダクション──人文知コミュニケーターとしての視点から

人間文化研究機構 総合地球環境学研究所の澤崎賢一です。この人間文化研究機構(人文機構)の中には6つの機関があって、各機関には「人文知コミュニケーター」という研究員が1人ずつ配属されています。僕もそのひとりで、総合地球環境学研究所(地球研)に配属されています。

このレポートは、各人文知コミュニケーターが持ち回りで互いの研究について書くシリーズです。今回、僕は国文学研究資料館の河田翔子さんのご発表を受けてレポートを書いています。河田さんのご専門は中世(鎌倉~安土桃山時代)の説話文学で、近年は特に「中世古今注」を研究されています。「中世古今注」とは、『古今和歌集』(905年)の注釈書の略称です。
(参考:NIHU Magazine No.108「人文知コミュニケーターにインタビュー!河田翔子さん」

人文知コミュニケーター研究会@Zoomで発表を行う河田さん

僕は、アーティスト/映像作家、キュレーター、リサーチャーなど、多様な肩書きで活動を行っています。専門は芸術実践論。特に現代美術、ドキュメンタリー映画、マルチモーダル人類学、学際・超学際研究、科学技術社会論、環境人文学、これらを横断する領域で研究実践を行っています。

なぜ特定の領域にとどまるよりも、複数の領域のあいだを横断し続けているのか。なぜなら僕は、専門性に閉じて深めるよりも専門性を横断して混じり合いながら、中心と余白、一貫性と多様性、真面目さといい加減さ、理論と曖昧さ、答えと問い、それらのあいだを往復する方法に関心があるからです。

今回、河田さんの発表を振り返りながら、単なる発表内容の説明紹介にとどまらない、僕のバックグラウンドや専門性からの解釈や発見も書いてみたいと思っています。ただし、僕はこれまで中世文学についての発表は拝聴したことがありません。中世文学は僕にとって未知の領域であり、これまで深く接する機会はありませんでした。

正直なところ、彼女のお話を振り返るにしても「誤りがないだろうか」「的はずれな解釈になってしまわないだろうか」と、そういった危惧は拭い去れないまま書き始めています。しかし、こうした危惧は学際研究にはつきもので、多少の曖昧さや不明瞭さを残しつつも、少しでも専門分野を横断した交流から新鮮な知見を見出すことができたならとても嬉しいです。それはまた、人文知コミュケーターが専門知と社会のあいだに立って双方のコミュニケーションを促す仕事である以上、僕たち人文知コミュケーターにとっても大切な知見となるでしょう。

さて、それではこれから河田さんの発表を振り返ります。今回、河田さんの発表の中心的なテーマは「中世古今注とはなにか」で、専門領域が芸術実践論、文化人類学、言語学、日本近現代文学、建築学などバラバラな僕たちに向けて、中世古今注(以下、古今注)の魅力を紹介してくれました。

改めて、古今注とは『古今和歌集』(以下、『古今集』)の注釈書の略称です。『古今集』は、最初の勅撰和歌集(天皇/上皇の命令で編纂された歌集)として尊重されました。この『古今集』は、後代への影響が大きく、その影響は和歌の世界にとどまらなかったそうです。『○○和歌集』といったタイトル、全20巻構成や部立を継承するなど、後代の勅撰集の規範となり、950年頃にはすでに聖典の趣が感じられたそうです。また、『源氏物語』(1008年)など、歌書以外にも影響を与え、屏風、硯箱、着物の図案としても引用され、『古今集』は、平和の時代のシンボルとして理想化されました。こうして、『古今集』への関心は高まっていき、より注釈が求められるようになっていきました。

そうした流れの中で、1400年頃からは『古今集』の難解な語句の解釈を秘伝として伝授する「古今伝授」ということが行われたそうです。古今伝授は早くから研究対象にされ、先行研究も多くあります。一方、古今伝授よりも早い時期の1280〜1600年代には、『古今集』の注釈書が300種類以上作られました。これらの注釈書のことを、総称して「古今注」と呼ぶそうです。古今注と古今伝授には、現代から見ても穏当な注ももちろん存在しますが、中世に入ると荒唐無稽な注も多く作られたそうです。しかし、両者の影響関係は、まだよく分かっていないようです。

ただし、古今注の先行研究は圧倒的に少ないのが現状です。成立時期・作者・執筆の目的といった基礎的な事項はほとんど不明であり、同一の名称でも伝本ごとに内容が増補・改変されており、実質的に別物となっている場合もあります。こうした事情から、古今注相互の関係性も不明で、その全体像はきわめて膨大かつ混沌としています。古今注はもともと専門的だったのですが、末端に広がって、武士など和歌に親しみの薄い層にも伝わるように「盛って」いかれたそうです。

そんな古今注ですが、従来の研究では、定説から外れた表現を除外する和歌的アプローチが多かった。しかし、このアプローチだと、古今注に多く含まれる「荒唐無稽」な注を読み解くことができない。だから河田さんは、古今注の「カオスで荒唐無稽であること」を逆手に取るようなかたちで、むしろ「荒唐無稽から古今注を分析する」という独自の着眼点から研究を深めていった。

出典未詳のエピソードを語るなど、荒唐無稽な注のことを河田さんは「説話的要素」と呼んでいるそうですが、この「説話的要素」は荒唐無稽なので偶然の一致が起きにくい。そのため、同じ「説話的要素」をもつ古今注は相互に影響関係があると考えられる。ゆえに、本文の「説話的要素」を細かく比較すると、先後関係を解明できるかもしれない。これが河田さんの特異な着眼点である。

そして最後に、河田さんは、本来は荒唐無稽な説であったものが、時代を超えジャンルを超え、何百年以上も語り継がれていたことは無視できないし、説話研究の研究対象としても古今注はとても魅力的だと話していました。

中世古今注の一つ「毘沙門堂本古今集注」(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200016976)

注釈と余白に惹かれて──実践との思わぬ共鳴

河田さんのお話を聞いて、定説や定石、聖典、本質、中心にあるもの、これらの理解を直接的に深めるよりも、その周縁のフラジャイルで流動的、そして曖昧で荒唐無稽な「注釈書」の多様性に着眼する河田さんの視点に、まずとてもユニークかつ今日的な魅力を感じました。この世界を型に嵌めて理解したつもりになるのではなく、この世界の多様な解釈を多様なままに、それらの差異や共通を読み解こうとするもので、僕の関心とも重なる部分がたくさんあるのではないかと思いました。加えて、河田さんの発表後に国際日本文化研究センターの駒居幸さんもおっしゃっていましたが、『古今集』が後世にどう読まれ、伝わったかの部分にもとても関心があります。

僕はこれまでフィールド研究者と共にアフリカや東南アジアの国々を旅しながら、フィールド研究の研究成果からはこぼれ落ちる現地での経験的な豊かさ=「フィールドの余白」に着目し、この「余白」にあたるものを映像を使って生きた資源や発見として捉えなすような映画作品『#まなざしのかたち』(124分、2021年)を制作しました。この「余白」の経験は、例えば現地の人々と酒を飲み交わしたり、ホテルの窓から眺める雨の様子だったり、アフリカのサバンナを黙々と大地を噛み締めつつ歩き続けている瞬間だったりします。こうした「フィールドの余白」は、ときに曖昧で言語化しにくく、解釈のあり方も多様、そしてフラジャイルで流動的で曖昧で荒唐無稽な経験に満ち溢れています。いうなれば、僕が作った映像作品『#まなざしのかたち』は、フィールド研究に「説話的要素」をたくさん盛り込んだ注釈書のようなものなのかもしれません。つまり、フィールドでの「主たる問い」や「目的」に直接は応えないけれども、それを取り巻く周縁的で豊かな経験を言葉と映像で拾い上げる、そんな試みです。

西アフリカ・ブルキナファソの村で撮影を行う筆者(撮影 清水貴夫)

それからもう一点、僕は今年度(2025年度)から、人文知コミュニケーターの皆さんと一緒に、実践に至る前段階の「構想」の豊かさに着目し、それを学術的な資源として捉え直す方法論的実践である「イマジナリー・ダイアローグ」という共同研究プロジェクトをスタートさせています。そこでは、異分野の研究者たちが集い、共同研究の可能性が議論されます。ただし、実装に向かうプロセスで生じがちなアイデアの矮小化を避けるため、あえて「構想」の段階にとどめることを意図しています。共同研究を実践するという定石よりも、その周縁で想像しうるアイデアのバリエーションを考案するという構造は、河田さんの『古今集』に対しての「注釈書」の多様性に類似していると感じています。


注釈的想像力と学際的共創──人文知のこれから

河田さんの発表を通じて浮かび上がった「荒唐無稽な注釈」や「説話的要素」へのまなざしは、単に中世文学研究にとどまらず、僕たち人文知コミュニケーターが今後どのように他者の専門性と交差し、横断的な実践を形づくっていけるかという課題にも深く関わっているように思います。

『古今集』という「聖典」に対して、正統的な解釈ではなく、周縁的でしばしば破格な注釈が幾層にも重ねられ、やがて注釈そのものが創造の源泉となる──この構造は、僕らが今後取り組もうとしている共同研究プロジェクトにも通じるものがあります。すなわち、ある一つの「中心的な問い」に対して、正面から答えを与えるのではなく、その問いを周囲から取り囲み、別様のまなざしで読み解き、時に外れたように見える応答の中から、むしろ新たな問いや価値が生まれてくる可能性を引き受けるという姿勢です。

2025年度から始まる「イマジナリー・ダイアローグ」は、まさにそのような対話の場を構想しようとしています。そこでは、各人文知コミュニケーターが自身の専門や実践を持ち寄り、「問いを共有する」ことを出発点としながら、実装よりも構想、結論よりも逡巡、成果よりも生成に焦点をあてていきます。このような試みは、学術の周縁に存在する「余白」や「注釈」にこそ、知の豊かさや多様性が潜んでいるという認識に基づいています。

河田さんの発表は、そのような知のあり方を中世説話文学という領域から示してくれたように感じます。それは、僕らが異なる領域間を横断し、共に思考を重ねていくこれからの実践にとって、大きなヒントであり、時代を超えた普遍性を宿すものでもあります。中でも、河田さんの「注釈のようなまなざし」は、僕ら自身の「知のあり方」にも静かに問いを投げかけてくれているのではないでしょうか。

人文知コミュニケーターが集い「イマジナリー・ダイアローグ」を実践している様子
(共同研究の可能性についてディスカッションを行った。)
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