リーダーに聞く『関雄二 国立民族学博物館新館長』<前編>

・好奇心が歴史(特に古代)に向かった経緯
小学校4年ぐらいから日曜日に進学教室(学習塾)へ通うようになり、その帰りに必ず渋谷のプラネタリウムか、国立科学博物館か、東京国立博物館に行っていました。天文への興味は薄れましたが科博や東博通いは続け、古いものを見たり、あるいは科学的な展示や恐竜の展示を見たりしてワクワクしていました。その後、小学校の高学年ぐらいから「真珠の小箱」という近鉄沿線の文化財を研究者が案内する番組を毎週見て、京都や、特に奈良に憧れるようになりました。
中2の時に大阪万博があり、その頃父が大阪に単身赴任をしていたので、そこを拠点に新幹線に1人で乗って京都、奈良へ行き、しばしば飛鳥の方の民宿に泊まるみたいなことを夏休みにしていました。その辺りから歴史、特に古代史に興味を持ちました。
いろいろな所を訪ね歩くうちに折口信夫に興味を持つようになりました。折口は柳田國男とともに日本民俗学の2大巨頭です。柳田は非常に実証性が高い民俗学を築いた研究者です。一方、折口は直感の世界でなかなか検証ができないような学風をもっていました。折口が書いた『死者の書』(1939年)を中学生か高校生の時に読み、日本の古代に対する関心を高めていったのです。『死者の書』は小説ですが、おどろおどろしい古代の声が聞こえてくるような気がして、折口の世界に引き込まれていきました。
・日本の古代からアンデスの古代へ
東京大学の文科三類に入学した頃は、もっぱら日本の古代をやりたいと思っていました。私は、折口や柳田の民俗学に惹かれていたのですが、それが文化人類学という学問に近いということにやがて気がつくようになりました。ちょうど折口に関するゼミが大学1年から2年にかけてあり、そのゼミへの参加をきっかけに、次第に文化人類学に興味を持ったわけです。当時、東大の文化人類学コースには、神話学の大家である大林太良先生がいらっしゃり、日本の古代神話を当時の流行であった構造分析をしながら、なおかつそれを大きなスケールで、ユーラシアから日本にどういうふうに伝播したのかを論じておられました。これは面白かった。同じ古代のアプローチでも、こういうアプローチがあるとわかり、大学3年の時に文化人類学のコースを選びました。子どもの頃の原体験や古代の地への憧れがありながら、オーソドックスではないアプローチに興味を持ったわけです。
一時は日本古代につながるようなユーラシア大陸の神話学をやってみたいな、と思っていました。でも当時はソ連がまだ存在していましたので、フィールドワークはほとんど不可能だったと思います。たとえ行けたとしても現地で出ている文献は、マルクス主義的歴史観で書かれたものしかなかったと思います。
フィールドワークもできないし、どうしようかと思っていた時に、後の恩師にあたる寺田和夫先生に出会いました。ご専門は自然人類学です。当時、寺田先生はアンデスに調査団を率いていらっしゃり、ちょうど私が大学院に入学した年に調査団の派遣がもう決まっていました。
大学院進学が決まった年の春、アルバイトをしていたら、突然母から電話がありました。「あなた、寺田って人から電話が掛かってきたわよ。」寺田先生は学部長補佐をされていたため、ほとんど授業がありませんでした。あの寺田先生かなと思いながらアルバイト先から電話を掛けると、寺田先生は「あぁ、君か。君はなんか古いことに興味があるんだって?実は今度アンデス調査団を5月に出すんだけど、よかったら来ないか。」と誘ってくださいました。
助成金の制度がほとんどなかった時代でしたし、外国に行くということ自体が非常に難しかった時代です。大学の助手の先生(現在の助教)に話すと、「お前、それは絶対に行け。これはうちの王道だ。そこに誘われたら行かない手はないだろう。」と言われ、そういうものかと思いました。まだアンデス研究をほとんど手がけていなかった時代ですから、調査団の歴史など何も知らなかったのです。当時、飛行機のエコノミーの往復チケットが65万円ぐらいでした。1979年の給与水準(初任給は11万円弱)で考えても、学生が買えるようなチケット代ではなかった。しかも1年現地にいるための滞在費なんか自分で工面するのは無理でした。海外に一度も行ったことがないし、よし行くかということで行くことを決めました。

・古代アンデスの考古調査における調査手法―理論とデータを繋ぐ
現在手掛けている遺跡は20年間、調査を続けていますが、発掘をする度に発見があります。発見の喜びは非常に大きいですけれど、その喜びはあまり続かない。むしろ発見をどういうように研究の中に位置づけられるのかということを考えたり、ある種自分なりの解釈なりシナリオみたいなものを見つけた時の喜びの方が大きいですね。さらにその成果を国際的に発信して、反響があった時がとても嬉しいです。自分の成果をここまで認めてくれているんだな、だからシンポジウム等に招待されているんだなと実感できることがとても嬉しい。でもそういう喜びを感じるまでには相当な時間がかかりました。
自然科学者は若いうちの研究でノーベル賞を受賞することが多いようですが、私達人文科学者の研究は、やっぱりじっくりと帰納的にデータを積み上げていくことの方がふつうかもしれませんね。もっとも、私の研究のスタイルは演繹法と帰納法の合体ですが。日本のアンデス調査の手法自体は、非常に細かく緻密なデータを積み上げていく日本考古学の影響を受けてきました。1958年に発足したアンデス調査団も、1960年にコトシュという記念碑的な遺跡と出会うと、その重要な調査データを細かく記述し、発表しました。
当時は、土器製作が開始される以前には神殿は築かれないという説が当たり前だったのですが、土器製作以前の時代にあたるコトシュ遺跡では特殊な造りの建物、神殿が見つかりました。新参者の日本が見つけたということで、アメリカ考古学会では一時は受け入れられなかったのですが、その後、世界からも認められるようになりました。私も、その流れで詳細な発掘データを集め、かなり緻密な記述を行ってきました。その伝統は守りたいと思っています。一方、欧米のアンデス研究あるいはアメリカ大陸の考古学研究は文化人類学的なスタイルを持ち、理論的なものを組み合わせていきます。だから以前は、欧米の研究者と話をすると、「細かいデータはわかった。でも何が言いたいの」と必ず問い直されたくらいです。そのことは私自身も以前から感じていたので、やはり記述だけでなく、欧米の研究者をぎゃふんと言わせるような理論的な研究も同時に進めたいと思っていました。ですから私の研究の後半生は両方のバランスを取りながらやっていくことに努めてきました。こうした姿勢をとると欧米の研究者のアンテナにも引っかかってくるのです。「こういうことをやっているのか。日本人もこういうことをやり始めているのか。」と見直してくれ、私がシンポジウムを開いた時の反応も良くなり、研究交流がどんどんと進みました。私が50代の半ば頃のことでした。
これほど遅咲きも珍しいことかもしれませんが、それは調査団という組織が関係しています。調査団では年齢の高い大学者の先生方がいるので、若い世代はなかなか自己主張ができない。調査団全体の成果だから、これをかすめ取って自分だけの論文にすることはできません。要するに共著論文という形にせざるをえず、しかも、先ほど言ったようにかなり記述的なことに力を注がなくてはなりませんでした。上の世代の皆さんが定年になり、調査団から退かれてきたのが今から20数年前ぐらいのことです。自分がトップになると、ここぞとばかりに好きなことを始めました。まず科学的かつ分野横断的の手法を取り入れ、理論とデータを繋ぎ、検証していく作業に着手しました。これが物凄く面白いものでした。今でもこれこそ研究だと思っています。
・異分野との協力
チーム内での研究会では、科学分野の専門家に、「私はこういうことを証明したい。具体的に言うと、アンデス文明の社会の中である集団とか個人がリーダーシップを握ることを広い意味で『権力』と呼んでおり、社会的あるいは宗教的に権力を握るプロセスを証明したい。」と言い続け、そういうものがいつから顕在化するのか、そして顕在化した時に、そのリーダーシップが何を基盤に成り立っているのかということを研究テーマに掲げました。これを考古学の手法で考古学者だけでやっていくと、想像の世界になりがちです。自分が組み立てた仮説を検証する方法として、やっぱり異分野の協力が必要なんですね。こうして専門家の皆さんに「そのためには、どういう方法がありますか」と聞くと、次から次へとアイデアが出てくるわけです。これを謎解きパズルのように考えていく過程が面白いのです。
人文科学は1つの真実を追い求める学問ではなくて、1つの現象をある側面から見た時にこういうふうにして捉えることができるというものを提示する学問だと思います。そしてその解釈なり分析が、いかに学界に対して受け入れられるものであるのかによって評価されるわけです。だからその評価のためにも実証性を高める必要性があるわけです。この時にやはり分野横断的に進めていくことの意味はあると思います。だから私の論文のほとんどは共著ですし、共同研究の成果と言ってもよいでしょう。そういう意味では国立民族学博物館(民博)のような大学共同利用機関は私にとってぴったりな組織です。
(聞き手:大場 豪 人間文化研究機構 人間文化研究創発センター研究員)
国立民族学博物館 関 雄二 館長
専門はアンデス考古学、文化人類学。東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。東京大学教養学部助手、東京大学総合研究資料館助手、天理大学国際文化学部助教授を歴任。1999年より国立民族学博物館。2022年3月退職し、名誉教授。2025年4月より現職。