第6回人間文化研究機構日本研究国際賞受賞者キャロル・グラック氏インタビュー(その1)

キャロル・グラック氏は日本近現代史の研究者です。第6回人間文化研究機構日本研究国際賞を受賞された同氏に、これまでおよび現在の研究活動についてお聞きしました。
コロンビア大学歴史学教授(ジョージ・サンソム教授職)キャロル・グラック氏インタビュー(その1)
近現代の日本を研究対象とした経緯
これは難しい質問ですね。1950年代終わりから1960年代初めにかけて、私は米国中西部で高校に通っていました。その頃に日本に関する何かを目にしたのだと思いますが、それが何かは分かりません。これといった記憶がないのです。家族も友人たちも同様です。でも日本に関心を持ったわけですから、何かを見たに違いありません。私が暮らしていた地域では、外国が話題に上ることはほとんどありませんでした。欧州はもちろん、日本もです。それが当時の中部アメリカだったのです。私が育ったのはとても保守的で愛国的な共和党支持の家庭です。父などは当時、外国旅行は米国的でないとさえ考えていました。私はシカゴ中心部の公立高校に通いましたが、そこで日本やアジアについて何かを学んだわけではありません。ですから、なぜ日本に関心を持ったのか、私自身を含めて誰も分からないのです。私が進んだ大学も日本語や日本文化について教えていませんでした。その頃はごく少数の大きな大学でしか日本や日本語について学べなかったのです。こうして私は日本に関心があるという「秘密」を抱えたまま、高校と大学を卒業しました。でも興味を抱いた理由ははっきりしません。日本に関する本を読んだこともありませんでした。振り返ると本当に不思議でなりません。
大学を出ると、フリーライターとして働き始めました。およそ6年後、結婚してニューヨークに住んでいた時、おもしろそうだから日本語を学ぼうと思い立ち、コロンビア大学で聴講生として日本語の集中講座を受講しました。1学期が過ぎた頃に他の講座も受け始め、やがて博士課程に入りました。長年の「秘密」をいよいよ行動に移し、日本について学べるのが嬉しかったですね。私が日本について研究しているのを知った高校の友人たちからは、長い間、変わり者呼ばわりされていました。ですが1980年代半ばになりウォークマンやトヨタが知られるようになると、日本と関わりがある私を「見る目がある」と言ってくれるようになりました。
コロンビア大学での第2学期は1968年の春、学生運動が盛んな時期でした。私は外交政策(ベトナム戦争)が人種問題(コロンビア大学があるハーレムにも人種問題がありました)とどう関わっているのかを知りました。博士課程へ進むに当たって文学と歴史のどちらを学ぶかを聞かれて、無知な私は「文学は好きで、どのみち小説は読む。だったら歴史をやるべきじゃないか」と思いました。歴史を学んだことはなく、大学での専攻は哲学とプリメディカル(医学部準備)でした。それでも歴史に決めた私は、すぐにそれが(ほぼ偶然とはいえ)魅力的な選択だったことに気づきました。
私は明治時代の歴史や日本が近代化する過程に惹きつけられました。先日、歴史家はどのようにして事実を選び出すのかという質問にお答えしたのですが〔このインタビューの前にクラレ本社で行った講演の質疑応答の中で、「数ある事実の中からどうやってひとつの事実を選ぶのか」という質問があった〕、1970年代の米国で私がモダニティ(近代性)や、近現代に生きることの意味に関心を持ったのは偶然とは思えません。それは近代化論が批判され、ポストモダニズムが登場した時代でした。
社会がどのようにして近代化するのか。日本は歴史的に見て、その魅力的な事例だと感じました。私は日本や日本の文化・社会が好きですが、学問という点では、近代化の一例としての日本に興味を惹かれたのです。そこで明治時代について研究しました。私の論文と最初の著書『Japan’s Modern Myths(日本の近代神話)』は明治のイデオロギーに関するものでしたし、今でも明治時代に限らず現在に至るまでの近現代史に関心があります。
グローバルな文脈におけるモダニティという考え方にたどり着くまで
今の世界でモダニティ(近代性)というのは選択的なものではないと思われます。言い換えれば、近代的でないことを選べる社会はほとんどないということです。近代世界では、場所による形態の違いはあっても、国民国家、資本主義、政治参加、世界秩序への統合といったことが求められます。暮らしているのがアフリカのレソトであれ、中米のエルサルバドルであれ、韓国、カザフスタン、あるいは日本であれ、近代の要素は人々の経験に組み込まれています。モダニティが私たちの世界を形づくっているのです。もちろん、その特徴は時間とともに変化し、モダニティに対する考え方も同じように変化してきました。場所によってはモダニティが批判され、ポストモダンなどが求められることもありますが、それ以外の多くの場所、とりわけグローバルサウス諸国では、近代的なものに辟易しているという人は見られません。多くの人たちが、モダニティが与えてくれるはずのものをもっと欲しています。
近現代の歴史はもはや数百年を数え、世界各地でさまざまな形態を取っています。しかしそれでも世界は変わらず近代的であり、だから私にとってモダニティの理解は、私たちが住む世界を理解するひとつの方法なのです。そう考えると、私が国境を越えた比較、すなわちグローバルな文脈における日本のモダニティについて考えるようになったのは、当然のことなのかもしれません。
この20年近く、私はコロンビア大学グローバル思考委員会に関わってきました。委員会が目指しているのは、21世紀の新しい世界にふさわしい分野や概念の探求です。こうしたアプローチの結果、私は日本だけでなくすべての国の歴史をグローバルな文脈で見るようになりました。だからといって日本を(どこでもいいのですが例えば)インドネシアやギリシャなどと直接比較するわけではありません。例えば明治維新の前後について考えているとしたら、同じような問題が異なる時代、異なる場所でどのように対処されていたのかを見ます。そして改めて日本を研究すると、日本以外の状況に触発されて新たな疑問が持ち上がってきたりするのです。コロンビア大学の学生は「グローバルな文脈で(in global context)」が私のミドルネームだと冗談を飛ばします。「キャロル・イン・グローバル・コンテクスト・グラック」というわけですね。この名前、わりと気に入っています。実際には他の国々をテーマに執筆することはほとんどなく、私が書くのはもっぱら日本のことです。でも「別の場所を見る」ことによる視点を得るため、グローバルな文脈にも目を向けます。
今は戦後に関する研究のために世界中のさまざまな戦後(第二次世界大戦後の状況)を調べているのですが、日本の戦後との共通点が思った以上にたくさんあります。日本の戦後体験は結局のところ「世界」大戦後のものだったわけですから、それをグローバルな現象としても捉えるのは理にかなっています。近現代の現象には多かれ少なかれグローバルな傾向があり、どんな社会も完全に単独で歩むことはできません。つまり日本の近現代史は他の国々の近現代史と絡み合っており、その観点で検討するのが最も有益なのです。
そう考える理由は2つあります。まず、国民国家という政治形態から公衆衛生の重視まで、近現代の現象は世界で起きたということ。同じ時期に同じように起きたのではありませんが、それでもグローバルな現象でした。ひとつの場所で、誰かひとり、あるいはどこかひとつの政府だけが引き起こしたのではありません。2つ目に、グローバルな文脈を考慮することで、日本例外主義(あるいはフランス例外主義やアメリカ例外主義)に抗うことができます。これら3つの国は特に、自分たちの国は特別だと考える傾向、つまり「欧米以外で19世紀に近代化を遂げたのは日本だけだ」とか、「フランス的例外(l'exception française)」などがあります。また、エイブラハム・リンカーンはアメリカ人を「ほぼ選ばれた民」と表現しました。それは国家としての誇りやナショナリズムではあっても、歴史ではありません。日本が近代化したのは、日本人論でよく言われる本質的な「日本人らしさ」が原因ではなく、歴史的な理由によります。江戸時代末期の日本の歴史と、19世紀の世界全体の歴史が背景にあるのです。この点で、日本の近代化の「成功」と1970年代の中国の近代化の「失敗」を比較するのは、問いの立て方が間違っています。今考えれば、中国の近代化が失敗したと主張するのは誤りでしょう。実際には日本とは別の時期に別のやり方で中国は近代化したのです。こうした違いは、近代化を達成した時の2つの国の歴史的背景が異なっていた結果です。
この2つの理由から、どの国の近現代史についてもグローバルな文脈や背景に目を配ることは有益だと思います。それによって、世界がどういう仕組みで動いているのかが分かり、文化的な(そして往々にして国家主義的な)説明を回避することができます。そうした傾向は、私がたくさんの時間を過ごしてきた3つの国(アメリカ、フランス、日本)で特に強く見られるのですが、グローバルな文脈に目を配ることは、ナショナリズムがもたらす害悪への対抗手段になるだけでなく、なぜ歴史がさまざまな場所でさまざまに展開してきたのかを理解するヒントにもなります。簡単な例をひとつ挙げてみましょう。日本は単一に近い民族が徳川幕府の下で200年以上にわたって平和に暮らしていた小さな国ですが、これ自体が明治の近代化の担い手たちにとってはアドバンテージでした。一方、欧州の大国とのアヘン戦争や国内の太平天国の乱を受けて政治的に弱体化していた1860年代の中国に、そのような強みは存在しませんでした。当時の日本と中国では、国内情勢もグローバルな文脈も異なっていました。そして、それぞれの国でその後に起きた一連の出来事を理解するには、国内情勢とグローバルな文脈の両方が必要です。このように、国家の歴史でさえ、ひとつの国の範囲内では十分に語ることができないのです。

(聞き手:大場 豪 人間文化研究機構 人間文化研究創発センター研究員)