No.087 - 第4回人間文化研究機構日本研究国際賞受賞記念ヨーゼフ・クライナー ボン大学名誉教授インタビュー

第4回人間文化研究機構日本研究国際賞受賞記念ヨーゼフ・クライナー ボン大学名誉教授インタビュー

ヨーゼフ・クライナー ボン大学名誉教授は、長年に渡る日本各地での文化人類学と、日本研究や欧州における日本研究の拠点形成への寄与が評価され、第4回人間文化研究機構日本研究国際賞を受賞されました。このインタビューでは、クライナー先生が日本を研究対象とした経緯や、研究の魅力、現在の研究や若手研究者へのメッセージについてお聞きしました。

日本研究国際賞授与式にて
日本研究国際賞授与式にて

 

・日本を研究対象とした経緯

オーストリアでの高校時代の8年間、私は古典コースを選択し、5年目から3年間、ギリシャ・ローマ古典勉強と平行して、サンスクリット語(梵語)の授業も取りました。当時、チベットやネパールといったインド仏教に関心を抱いたと同時に、古代文化の伝統を守りながら生き続けている民族に興味を持っていました。古代研究と現代研究のどちらをしたいのかということは深く考えず、1958年に歴史民族学のアプローチを重んじたウィーン大学の民族学のコースに入ると、そこには昭和10年代に岡正雄先生が設立した日本学科がありました。偶然にもその年から日本とオーストリアの交換留学制度が始まり、初めて日本人留学生3名がウィーン大学へやって来たのです。その中で1番親しかったのが立教大学の助教授だった住谷一彦氏でした。彼はかつて東京都立大学で岡正雄先生の助手を務めており、私と専門分野が同じだったことから彼の影響を受け、もっと広く、日本の文化全体を知りたいと思い、日本研究の道へ進みました。

 

・日本各地での現地調査を通して感じた研究の魅力

結局、日本は1つではないことが分かりました。日本民族文化は均一的な、一元的な原理で理解や説明ができる文化だと思われますが、実際に旅すると各地の方言や食べ物、価値も異なっています。地方を歩いてみると、日本の文化は複雑で色々な伝統の重みに違いがあることを実感しました。

柳田國男先生が『蝸牛考』で生み出した「周圏論」では、近畿を中心として、新しい言葉が生まれると同心の波のように広がっていき、一番古い言葉や文化が端っこに追いやられます。それに対して宗教学の原田敏明先生は、伝統的な文化が近畿地方に残り、宮座の神観念を中心としている村落共同体がいまだに生きているという「すり鉢論」を打ち出しました。村落の各家からは必ず1人、性別に関係なく収穫祭に参加します。この祭りは、大声を出して子供を脅かす(ユネスコの世界無形遺産に登録された「来訪神:仮面・仮装の神々」のような)秋田のナマハゲ、トカラ列島・悪石島のボシェや宮古島のパーントゥ仮面行事等とは異なります。もちろん見る人にとっては印象的かもしれませんし、よく写真撮影もされますが、黙って静かに神様にお礼をして、その年に初めて獲れた新米で炊いたご飯をいただく宮座の祭礼の方が聖なる雰囲気だと思います。

 

・現地調査で心がけた点

民俗学者の柳田先生や日本民族学の生みの親である岡正雄先生もそうでしたが、一方的に村の方々のお宅にお邪魔してお話を聞いて、それを我々(研究者)のモノにして、我々が発見したかのように発表したり、本を書いたり論じるのではなく、give and takeで向こうにも何か差し上げないといけない、と強調されていました。柳田先生、また宮本常一氏もそうでしたが、新しい農業の知識を村に教えていました。柳田先生は旧農商務省に入っており、農業組合等の研究を一生の課題としていました。村のために何かしてあげなければならないと考えていたのでしょう。

私が奄美大島に調査へ出掛ける前に、柳田先生にこう言われました。「君、お土産にお線香と東京で緑茶を沢山買って村に持って行きなさい。村の人が喜ぶ」。このような柳田先生の知識は大正10年のものでしたが、私が調査をした昭和30年代も変わっていませんでした。

東京大学の同級生と一緒に九州で調査をしていた時に、地元の方言が分からなくて同級生が現地の方に怒られました。聞き直すと、「ここに来る前に村の言葉を勉強しろ」とまた怒られる。ところが私が3回、4回聞いても怒られません。地元の方は最初から私には地元の言葉は分からないと思っていたのでしょう。だから同級生から、「おい、クライナーが聞いてくれ」と言われました。

 

・海外の研究者が日本研究を行う特色

我々海外の研究者は日本の研究者とは生まれと育ちが異なっており、違った視線で日本文化を見ているので、変わった質問をすることは当然だと思う。あるいは、ある問題に対して我々は日本の研究者とはずれがあるかもしれない。ただ私の場合は、恩師の岡先生、柳田先生、原田先生等の強い影響を受けて、だんだん自分がどこの者なのか分からなくなったこともありました。

私がドイツ日本研究所の所長だった時に、今の上皇陛下(当時は天皇陛下)にお会いしました。所長に着任して1年も経たないうちに宮内庁から、「陛下がドイツ日本研究所について知りたがっているので話をしてほしい」という依頼があり、お引き受けしました。陛下とお話する時は、事前に暗記したドイツ政府の意思決定をご説明して、当時のドイツ社会の高齢化や人口減少、生命倫理(議会で討論されていた脳死の問題)といった日本と全く同時期に発生し、日本と似たような問題について日本と比較して議論をしました。ヨーロッパのキリスト教やユダヤ教といった伝統とは切り離された日本では、生命倫理等の問題をどうするのか。陛下はずっと私の話を聞いていらっしゃいましたが、暫くして「分かりましたけれど、もういっぺんクライナーの言葉で説明してほしい」とおっしゃいました。それまでは堅い、ドイツ日本研究所長の立場として暗記の説明をしていました。色々な話をしていると、陛下は最後に2つ私に覚えておいてほしい、とおっしゃいました。

1つは、あなた方はドイツの研究者であることを忘れないでほしい。特にクライナーの部下は流暢な日本語で、読み書きは全く問題ないにも関わらず、どうしても日本人より理解は遅くなってしまう。だから日本人との競走に入ったら負けるだろう。しかし我々日本人の研究者にとってそれは面白くない。我々日本人が興味を抱いているのは、あなた方ドイツ人がどういう問題意識を持っているのかということ。それを忘れないでほしい。高齢化の問題にしてもドイツ的な考えがあるだろう。それを教えてほしい。これに日本人は興味を持っている。つまり、違う文化で生まれ育ったという意識を持って研究するということだ、と。

もう1つは、日本には少数の民族や少数の者もいるので、それも視野に入れてほしいということ。その時に、私が奄美大島の研究で博士論文を執筆したことを陛下にお伝えすると、「それはよろしい。では奄美の言葉をどのくらい勉強したのか」と質問され、「申し訳ないですが、勉強できませんでした」と答えました。正直、私は博士試験以外でこんなに厳しく言われたことはなかったのですが、陛下はこうおっしゃいました。「民族学者は村に行く前にその村の言葉を身につけるべきだと思う。まだ遅くないから、これから南島の言葉を勉強しなさい」。それに対して私は「申し訳ありませんが、これからドイツ日本研究所を立ち上げるので今はできません。立ち上げが終わってから勉強します」とお伝えすると、またお叱りを受けました。「クライナーは『自分(この国の天皇)は暇じゃないか』と思うかもしれないけれど、毎日忙しい仕事です。しかし毎週2時間、沖縄の言葉を習っています。だからあなたも週2時間は南島の言葉を勉強しなさい」。

これはもっと早く理解できれば良かったと思っていることですが、外の者として自分が生まれ育った文化の立場から日本を見て、日本の村に入って色々な物を勉強する。それをまた村の人達に伝え、日本の研究者と交流し討論することが重要なのです。そのための言葉は大切ですね。

 

・研究に関する思いがけない出来事

私が奄美大島で撮った全ての写真、ネガ、テープは、お世話になった瀬戸内町立郷土館に寄贈しました。コロナ禍の前に同館より、「瀬戸内町の制定50周年に何かやりたいので、先生の写真を使いたい」との電話をいただき、「私は写真を差し上げたので、どうぞ自由にお使い下さい」と回答しました。しばらくして今度は、「町の写真集を作りましたので、クライナー先生に挨拶文を書いてほしい」との依頼がありました。出来上がった写真集を見たら、確かに私が撮影した写真なのですが、私が関心を持つ写真ではなく、現地の人々にとって興味のある写真が選ばれていました。私は民間信仰の行事・祭礼等に興味があり、祭りの写真を撮っていましたが、知らないうちに子供たちが遊ぶ場面も数多く撮影していました。当時、日本の経済成長の関係で若い世代は大阪へ出稼ぎに行き、村に残っていたのは年配の方と子供たちで、そういった人々の農作業や子供たちの遊びの様子を写真に撮っていました。そして、私が撮った写真の中から現地の方が選んだ写真で写真集が出来たのです。これは非常に興味深く、良かったことだと感じますし、珍しい事例です。なぜなら私が村に行って、人の話を聞いて、外国語で本を書いて送った時には現地からの反応がなかったからです。それが今回はとても素晴らしい反応があったので嬉しかったのです。

 

・現在興味のある研究テーマ

先生方から受け継いだ問題は、日本文化がいつどこでできたかという起源についてです。これは複雑で単一的ではないことは分かっています。

 

・日本研究に取り組む海外の若手研究者や学生へのメッセージ

就職について先々から心配しないでください。最初から就職目当てに日本研究をするのではなく、日本とその文化を理解するために勉強する。それができれば就職先はどこにでもあります。就職先は貿易、政治、外交、あるいはアニメ、美術、工芸、デザイン等どこにでもあります。日本のデザインは江戸時代からヨーロッパに強いインパクトを与えたことで皆が惹かれました。日本文化を研究する価値は大いにあり、ヨーロッパにとって重要な文化です。他の国よりも重要だと思っています。

これは梅棹忠夫先生の影響かもしれませんが、ヨーロッパと日本には歴史上の関係はなく、非常に似通った構造があり、例えば中世の封建制度(フューダリズム)が挙げられます。最初に来日したヨーロッパ人(イベリア半島の商人あるいは宣教師)は、問題なく日本の文化に溶け込んでいきました。それは日本の社会がヨーロッパの社会と似通っていたからです。最初のイエズス会の神父は豊後(大分)に上陸し、初めての晩餐会で「日本人は上手にお箸を使って指を全然汚さないので、自分たちが指で食べているのが恥ずかしかった」と書いています。

このような点からも日本文化を研究する価値は大いにあるので、それに溶け込んでしまえ、と思います。そして一生懸命に研究すれば、あとはどこかで自分が一生満足できる仕事を見つけられるはずです。例えば茶の湯を身につければ、それがまた自分の世界を広げますからね。

 

(聞き手:大場 豪 人間文化研究機構 人間文化研究創発センター研究員)